荒井由泰さんのアートコラム  
         版画の魅力とコレクションの愉しみ
                   第3回 コレクション事始め

 学生時代からアートには興味があったが、まさかコレクターになるとは思っていなかった。
1973年にさかのぼるが、ニューヨークの5番街にあったブレンターノという有名な書店に隣接されたギャラリースペースにあったアンドレ・マッソンの「Personages」(3人の女性像)」に何故か魅かれた。1953年制作のリトグラフ(75部限定)であった。この作品が自分で稼いだお金で買った最初の作品となった。価格は450ドル、当時はドル・300円時代であるから結構高額であった。月給の半分を超える金額であったことから、仕事仲間に少しお金を借りた覚えがある。よくも思い切ったものと、今になって思う。しかし、自分のお金で「アート作品」を購入できることを体感することで、アートが身近な存在へと大変身した。その後、版画関係の雑誌を読み、画廊に行く冒険も経験し、土曜日のマンハッタンの画廊めぐりがはじまり、そこで池田満寿夫や長谷川潔の作品に出会った。このような体験によって自分の気に入った作品をコレクションしていく道が開かれたように思う。
私は運よく24歳で1972年から5年近く、ニューヨークで仕事することになるが、そこでのアート体験やコレクション体験がその後のコレクションに大きな影響を与えることになったので、その幾つかの体験・出会いをお話することにする。

              
        アンドレ・マッソン 「Personages」1953

体験1:アンディ・フィッチ(Andy Fitch)との出会い
版画に興味を抱き、日本から「版画芸術」を送ってもらったり、「現代版画センター」の会員になったりで、版画に関する情報収集がはじまった。浜口陽三や長谷川潔らの巨匠に関心を持ち、ニューヨークでの扱い画廊を調べるうちに、フィッチ・フェブレル(Fitch-Febvrel)画廊にたどり着いた。1973年だと思うが、アップタウンのコロンビア大学の近くで自宅兼画廊のプレイベートなたたずまいだった。画廊主のアンディはイエール大出身のインテリで、コロンビア大学でフランス語を教えていたが、コレクターが高じて画商になった人物だ。彼は版画専門で、取り扱うアーティストはフランスの19世紀のルドンやブレスダンからベルエポックの作家たち、そして浜口や長谷川ら日本人作家を含む現代アーティストであった。また、彼は1964年の東京オリンピックには軽量級のレスリングにも出場したアスリートでもあった。眼鏡をかけた小柄で温厚な人物だ。彼は1971年に画廊を開き、1977年にマンハッタンの57丁目のビルに画廊を開設している。なお、フェブレル(Febvrel)はフランス人の奥さんの旧姓である。残念ながら、2005年には画廊を閉めて、現在はニューヨーク郊外の自宅で画商の仕事を続けている。
最初に訪問した自宅兼画廊では多くの作品がマップケースのような引き出しにシートで保管されていた。作品を見せてもらう時の「私の作品の扱いが非常に良い(必ず両手で、作品をつまむように持つ)」との評価をいただき(私としては芸術作品として丁寧に扱っただけであったが)、コレクターの卵として接してくれ、まさに私はフィッチ塾の生徒となった。最初に購入した作品は浜口陽三の「蝶」(1968年、カラーメゾチント)であったが、毎月100ドル支払い、半分支払いが終了すると、作品を受け取る方式での購入だった。毎月、画廊を訪れるたびに、彼の扱う作品群を見せてもらった。オディロン・ルドン、ロドルフ・ブレスダン、メクセパーの名品や浜口や長谷川の名品にもそこで出会った。ガラス越しでなく、直接手に取って版画に接することで、マチエールのすばらしさが体感でき、ますます版画に魅かれることになった。
1976年だが私がハッカーという古書店で、長谷川潔の「切子グラスに挿した草花」(1944-45 無署名・アクワチント)が入った「銅版画」という版画集を格安で見つけた時には、「よく見つけた」と、ほめてくれ、「長谷川からサインをもらってきてやろう」と言ってくれた。早速、長谷川先生に手紙をしたため、パリにもっていってもらい、無事、献呈入りのサインをいただき、私の家宝となった。
1977年にマンハッタンで開廊した折には、内装の造作を手伝ったことも懐かしい思い出だ。また、2005年に28年間続いた画廊を閉める最後の展覧会には家内とともに出かけ、労をねぎらった。とにかく、アンディと会ったおかげで、版画に対する目が養われ、コレクションという楽しみが増え、人生が豊かになった。アンディには感謝あるのみだ。

体験2:木村利三郎との交流
木村利三郎は1964年に渡米し、「都市」をテーマに描き、活躍した版画家である。彼は1924年生まれで、2014年にニューヨークで亡くなった。彼は私の父と同じ世代であるが、親愛の情を込めて「リサさん」と呼んできた。先に述べたように、私のふるさと・福井県勝山市に竹田鎮三郎とともにコレクター宅に寄宿していたご縁で、ニューヨークでの仕事に慣れてきた頃、彼のアトリエ兼住居に出向いた。彼のアトリエはソーホーにあるウエストベス(Westbeth)ビルディングにあり、ここはアーティスト専用の建物にあった。シルクスクリーン技法を使って作品作りをしており、アトリエには刷り途中の作品が洗濯挟みでつるしてあったのを覚えている。作家本人と作品を同時に知った最初のアーティストでもあった。
リサはアーティストやクリエーターが集まる時に声をかけてくれ、以後足しげく通うことになる。彼は料理がうまく、美味な料理とアートの話が聞ける機会は刺激がいっぱいだった。古川吉重、川端実、飯田善国、安斎重男、森本洋充、佐藤正明、本田和久ら、ニューヨーク在住の芸術家にお会いしたのもリサのアトリエだった。リサはとにかく面倒見がよい人で、私はもちろん、日本からきたアーティストも含め、多くの方がお世話になった。多くの方がリサの人柄に魅了され、日本にもファンがたくさんいた。1977年に長男が生まれた時には、住まいまで駆けつけてくれ、長男の写真と彼の版画(エッチング)を交換してくれた。ニューヨークでは彼の作品を購入する機会がなかったが、日本に戻ってからは、何度か「木村利三郎版画展」を開催し、作品の販売に力を入れるとともに、私のコレクションにも加わった。

           
木村利三郎「5番街ティファニー」シルクスクリーン(アートフル勝山エディション)

体験3:ローゼンワルド(Rosenwald )コレクションの鑑賞
なぜだかよく覚えていないが、私にも声がかかり中里斉先生(ニューヨーク在住・ペンシルベニア大)ら数名(リサ、佐藤正明も一緒だったと記憶している)とフィラデルフィア美術館でローゼンワルドコレクションを特別鑑賞する機会に恵まれた。ローゼンワルドコレクションは版画及びドローイングの有数のコレクションで現在はワシントンのナショナルギャラリーにすべて寄贈されている。特別室で、まずは手を洗い、一点一点、学芸員から説明を受け、その後、直に名品を手に取り鑑賞するというぜいたくな機会であった。レンブラント、ゴヤ等のオールドマスター作品はもちろん、メゾチントの歴史をなぞる紹介もあり、最後には浜口陽三の作品も鑑賞できた。作品はすべてマットに挟んだ形で、作品の部分に窓が切られており、直接手に取って、鑑賞できた。この時の感動もあって、私のコレクションも額装でなく、マットに挟む形での保存が中心で、手に取って鑑賞を楽しんでいる。版画の楽しみ方ではベストな方法だと思っている。一方、マットサイズに合わせた替え額を持ち、家や展覧会での展示に対応している。収納スペースや保存のことを考えても有効な方法だ。

以上のような体験が私のコレクション人生に大きく影響してきた。ニューヨークでのコレクションは今から考えるとストーリーがなく、行き当たりばったりの感が強かった。1977年に日本(福井県勝山市)に戻り、小コレクター運動の流れをくむ形で、「アートフル勝山の会」を設立し、コレクションと並行して活動をスタートさせることになる。
この話は次回で。