荒井由泰さんのアートコラム  
         版画の魅力とコレクションの愉しみ
                   第4回  小コレクター運動と版画:その1

 
私は1977年5月、ニューヨークを離れ、ふるさと・福井県勝山市の繊維会社(父親が社長)に帰ってきた。ニューヨークから直行で人口3万(現在2万4千人)の勝山市へということでかなりのカルチャーショックであった。もちろん、画廊はない。しかし、福井県は創造美育運動(子供たちのための新しい美術教育)の全国拠点の一つであったことから、その後の小コレクター運動の拡大もあって現代美術に関心のある方々が存在していた。創造美術運動(創美)や小コレクター運動について、わの会の会員各位はよくご存じかと思うが、少しばかり復習させてもらう。

〇創造美育運動そして小コレクター運動
戦前より子供たちの美術教育に関心があった栃木の素封家・久保貞次郎(教育者・コレクター)が1952年に、彼の理念に共感した北川民次や瑛九とともに、新時代に対応した美術教育の普及を目指し、「創造美術協会」を設立し、全国展開を目指した。創造美育セミナールと称する研究会が定期的に行われたが、そこで北川民次やデモクラート会員(瑛九、靉嘔、泉茂、池田満寿夫、細江英公ら)との交流や作品のオークションが開催された。久保は「公衆の美術に対する関心を高めるには作品をもってもらうのが最良の方法」として1956年に「よい絵を安く売る会」を発足させ、1957年には「小コレクター運動」として発展していった。「小コレクター運動」は「3点の作品を持つ人を小コレクターと称し、小コレクターを増やす運動」であった。小コレクター運動によって「いままで無関心であった人々が美術に関心を寄せることになる」そして、「不遇な位置にいる作家を支持し、社会に広める役割を果たす」としている。

     

          1956年「良い絵を安く売る会」会場

〇福井での「創美」そして「小コレクター」運動
この考え方に共鳴した福井の教師たちによって、福井は「創造美育運動」の一大拠点となるとともに、1957年には「福井の小コレクターの会」を設立して、例会では支持する作家についての議論をし、また継続的に頒布会を開催し、熱心に運動を展開した。彼らは瑛九を筆頭に北川民次、泉茂、オノサトトシノブ、靉嘔(アイオー)、池田満寿夫等、デモクラートに参加していたアーティストを中心に応援の輪を広げた。1958年には鯖江市の木水奥右衛門氏・大野市の堀栄治氏らが中心となって「瑛九油絵頒布会」を企画し、晩年の瑛九の生活とアート活動を応援した逸話が残っている。(学校の先生方10名が月1000円を出し、瑛九の元に送金し、それに対し彼は毎月10号の油絵を福井に収めた。瑛九は月1万円で制作と生活を手に入れ、先生方は1万円で10号の油絵が入手できた)その後、瑛九、靉嘔、泉茂らの頒布会に広がっていく。1960年には亡くなった瑛九を忍び、福井市で都・瑛九夫人を招き、全国に先駆けて「瑛九遺作展」を開催した。1958年の靉嘔頒布会の頒布会の際に収録された堀氏の言葉が時代を物語っている。堀は「あの当時、われわれが扱った絵全部なら1万枚くらいになるかね」(多くが版画)と述べるとともに、「そんなに売れたんですか?」の質問には「北川民次の絵はまだ売りやすかったが、瑛九、泉、靉嘔、池田ときたら、売りにくいという程度ぐらいのものでなかった」と返している。販売するには様々な工夫がなされたが、それにはアジテーターともいうべき存在が必要であった。全国的には久保であり、福井では堀栄治の存在が光っている。堀は大野市を拠点に瑛九をはじめ、靉嘔や池田の頒布会を大野市の仲間とともに継続的に続けた。その結果、靉嘔の版画が街なかにあふれ、最近では古民家を改装してCOCONOアートプレイスがオープンし、市民がコレクションした瑛九や靉嘔らの作品が並ぶ。堀らの時には押しつけがましい販売方法については、様々な批判があった。しかし、そのおかげで作品が残った。彼らは商売としてでなく、作家を応援するために献身的に努力してきたというのが実態であり、彼らの活動には頭がさがる思いだ。
様々な逆境にもめげず、小コレクター運動が続けられた。そんな訳で私が故郷にもどった時には靉嘔、オノサトトシノブ等の版画が身近にあった。私が日本に戻ってきた1977年当時、福井駅内のそば屋さんに靉嘔の版画が掛かっていたのに感動したことを今でも思い出す。我が家にも両親がお付き合いで買ったと思われる泉茂、靉嘔、オノサトの作品が何点かあった。さらに、勝山市ではN氏が瑛九や池田満寿夫の大コレクターとして、また医師の中上氏が瑛九、靉嘔、オノサト等のコレクターとして育っていた。

     

1960年に開催された「瑛九遺作展」にて 都・瑛九夫人をはじめ、福井の創美・小コレクター運動を引っ張った人々が集っている。鯖江市の木水、大野市の堀をはじめ、私のふるさと勝山市から中西、中村、原田が参加していた。

〇「アートフル勝山の会」の発足・活動
私は日本に戻った翌年の1978年に地域をアートでいっぱいにしたいという気持ちで「アートフル勝山の会」を仲間を集い、発足させた。何もない勝山市では自分が動かないとアートが身近にならないと感じての行動であった。最初の展覧会は「池田満寿夫名作版画展」であった。N氏のコレクションをお借りして、池田の60年代初めの色彩と鋭いドライポイントの線が美しい名品(「聖なる手」「タエコの朝食」等)が並んだ。同年、2回目の展覧会は「現代版画の巨匠6人展」(池田満寿夫、菅井汲、浜口陽三、浜田知明、長谷川潔、駒井哲郎)で私のコレクションを含め、勝山にあった作品を集めて展示した。1979年には「北川民次展」・「N氏コレクション展」と続き、1981年からは作家を招待し、ギャラリートークやレセプションをする方式で3~4日程度の短期間の企画展を開催してきた。招待した作家は24人を数える。主な名前を挙げてみると岡本太郎、難波田龍起、オノサトトシノブ、泉茂、吉原英雄、元永定正、磯崎新、木村利三郎、野田哲也、関根伸夫、舟越桂、丹阿弥丹波子、小野隆生、土屋公雄、柄澤齊、北川健次、戸村茂樹らビッグネームを含む面々である。6名の作家には複数回、勝山まで足をはこんでいただいた。

〇アートフル勝山は小コレクター運動
アートフル勝山の会だが、地元の勝山市の夫婦会員を中心に30名ぐらいで構成され、創造美育運動・小コレクター運動を実践されてきた原田勇夫妻、アートコレクターでパトロンでもあった中上光雄・陽子夫妻も加わって活動が続けられた。当初はあまり意識しなかったが、結果的にはまさに「小コレクター運動」の伝統を受け継ぐこととなった。1983年以降は中上先生夫妻が「コレクションが飾れて、人が集える空間を」と建築家の磯崎新氏に依頼して完成した個人住宅(中上邸イソザキホール)がアートフル勝山の会の活動の拠点となった。当初は瑛九つながりもあり、デモクラートおよびそれに近いアーティストが中心であったが、その後は中上先生と私で相談しながら、新しい作家を加えていった。
2007年までは中上邸イソザキホールで定期的に企画展を開催してきたが、中上先生が健康上の都合で入院されたこともあり、作家を呼んでのアートフルの企画展は中断した。その後は福井大学の美術の先生を中心にできたE&Cギャラリー(福井市)とタイアップして私のコレクションを中心とした企画展の開催という形で継続してきた。自分ながら、よくも長きにわたり、続けられたものだと、思う。好きなことだからやれたのだろう。
少し長くなったので、今回はこれまで。次回はその2と称し、アートフル勝山の会の活動の苦労話も含め、小コレクター運動における版画の位置づけ等について述べることとする。


      

             中上邸イソザキホール

    

            1983年「岡本太郎展」に

     

          1984年「野田哲也版画展」にて
             アートフルメンバーと野田先生・娘のりかちゃん

     

           1985年「オノサトトシノブ展」
          オノサト夫妻・中上夫妻・原田夫妻それにオノサトの息子さん

     

           1986年「元永定正展」元永先生と中上夫妻それに私

     

         1987年「泉茂新作展」 泉茂と堀栄治 レセプションにて