荒井由泰さんのアートコラム  
         版画の魅力とコレクションの愉しみ
                   ⑦
版画コレクションへの招待 その2

 ・マイコレクション物語:恩地孝四郎と谷中安規の世界
近年、継続的に「恩地孝四郎」を追いかけてきた。また、昨年は私的には「谷中安規イヤー」であった。この二人はコレクションの中核にある駒井哲郎と同じく、文学者との縁が深く、本の装幀本や挿画本を多く残している。私自身は版画のみならず、本・文学への関心が高かったこともあり、両作家については装幀本・挿画本も含めて蒐集してきた。加えて、彼らの著作や彼らについて書かれた評論等の資料も集め、読みこなすことで見えてくる人物像や生き様も追いかけた。これもコレクションの魅力だ。二人のコレクション物語の一端をお話ししたい。

―恩地孝四郎―
*「本は文明の旗だ。本は美しくなければならない」

恩地孝四郎は長谷川潔と同じく1891年生まれで、1955年に亡くなっている。彼は創作版画の旗手として有名であるが、現代美術家、装幀家、写真家、詩人等、多様な顔を持つ。一般の方の知名度は高くないが、まさに敬愛すべき大アーティストである。
私の恩地コレクションは装幀本コレクションからスタートした。20年近く前である。神保町の古書店で函に入った美しい小型本の「白秋詩集」(1920年 アルス刊)を見つけた。本を手に取り、ページをめくるとそこにアートがあった。早速購入した。1500円であった。その後、阿部出版の「装本の使命」(恩地孝四郎装幀美術論集)をバイブルに恩地装幀本の蒐集がはじまった。恩地の持論は「本は文明の旗だ。本は美しくなければならない。」で、心に響く。恩地の最初の装幀本をはじめ、大正から昭和のはじめの装幀本を「日本の古本屋」(ネット販売)や神保町で集めた。本の価値が高かった時代の本を手にすると、存在感があり、かつ美しい。恩地が装幀に関わった大物はやっぱり萩原朔太郎の処女詩集「月に吠える」(1917 感情詩社刊)の初版本だ。田中恭吉の版画に加え、恩地の抽象版画が3点、挿画されている。高価な本を買ったことがなかったので、恩地コレクションとして手に入れた。残念ながらカバーは欠だが、時の選択に耐えてきた姿は美しい。本と版画は本当に相性がいい。
*出版創作・版画雑誌・編集本
恩地はみずから「出版創作」と称する本も手掛けている。字体・書体、言葉・文章、版画・写真などすべてを自分でプロデュースした豪華本だ。「海の童話」(1934)「飛行官能」(1934)「季節標」(1935 並本・特装本)、「博物志」(1942)「虫・魚・介」(1943)などがある。写真・木版・詩でデザインされたモダンな「飛行官能」は特に稀覯本で、海外でも人気だ。そのため100万円以上もする。残念ながら「飛行官能」については入手の機会を逃してしまった。彼の作品は大正から昭和の初めに出版された版画雑誌に多く挿入されていることもあり、「詩と版画」・「風」・「線」・「白と黒」もできるだけ蒐集した。また、彼がアオイ書房の志茂太郎とともに写植技術を活用して1935年に創刊した「書窓」は扉に版画を入れるなど、本好きの人にはたまらない斬新な雑誌である。表紙のデザインも含め・編集者として関わった。この「書窓」全体も彼の表現者としての重要な顔の一部だ。単独の版画作品とともに装幀本・挿画本・出版創作・版画雑誌・編集本を一体としてコレクションを構築してきた。
*創作版画:「月映」そして木版画・マルチブロック作品
本題の私の恩地の版画コレクションについて述べたい。
明治から大正にかけて「創作版画」運動が展開された。絵師・彫師・摺師のコラボで作られた浮世絵がすたれ、明治期は複製のための技術に成り下がった。それに対し、明治後期に彫刻刀を筆として絵も彫も摺もすべてを自ら行う「創作版画」が産声をあげた。山本鼎が最初の世代であり、恩地孝四郎は次世代に属する。東京美術学校の生徒であった恩地孝四郎・田中恭吉・藤森静雄の3名が1914~15年(大正3~4年)にかけて限定200部の詩画集「月映(つくはえ)」を出版した。(公刊は機械刷で第7集が最後となった)彼らは青春の揺れ動く心情を木版画に託した。当時は結核が死の病であり、死が身近にあった。田中恭吉は「月映」が終結する前に結核で死に、藤森も妹を亡くしている。そんな不安な気持ちや生や愛への青年の想いを集めた「月映」は創作版画の金字塔として高く評価されている。当時は全く売れなかったようだ。そんな訳で完全な形で残っているものが少なく、市場に出てこず、非常に高価だ。
「月映」の作品群は私の心をとらえ、気に入った恩地作品を中心にコレクションに加えた。「月映」の恩地作品は日本の抽象画の最初とものと評価されており、「抒情」というタイトルで抽象作品群を残している。月映に収録されていた当時摺り(機械摺り)の作品は10点、後刷り作品は4点がコレクション入りしている。
恩地は装幀家としては日本で最初のプロのブックデザイナーであり、1955年に亡くなるまで数多くの作品を残している。当時、多くの版画家は稼げず、貧乏暮らしをしていたが、彼は装幀という仕事を持っていたので、いわゆる「売り絵」を描かなくてよかった。彼の美意識からすれば「抽象絵画」にこだわりたかった。彼は創作版画の旗手であり、創作版画の普及をめざしていたこともあり、戦前には分かりやすい具象版画も何点か制作している。「新東京百景」(1930年頃)でも数点、発表しているが、今見てみると「抽象画」のにおいがする。
戦後は原点にも戻って、ひたすら抽象の世界に身を置いた。それらの作品を見たGHQのインテリ将校たちがその価値を見出し、競ってコレクションした。彼自身、新しい版画を作ることには情熱を注いだが、版画を摺り増すことには関心がなかった。大判の作品では2~3枚のみの制作だったようだ。そんな理由で戦後の大判の秀作はすべて海外へ行き、現在はボストン、サンフランシスコ、ホノルルの美術館や大英博物館に収まっている。
彼は伝統的な木版画技術をベースにして作品制作を行っていたが、戦後は様々な形に切った段ボールや紙ひも、葉っぱ等、様々な素材に着色をし、バレンで摺る方式(マルチブロック・プリント)でアート表現を追求した。版画と言えば複数性が基本であったが、恩地の制作スタイルはモノタイプ作品作りの発想であり、一点一点作品が異なることも面白い。とにかく、彼は実験的な発想で新しい表現を模索し続けた。彼の芸術に対する姿勢に大いに共感するとともに、そんな恩地の物語を集め、次世代につなぐべく、コレクションを続けてきた。
*恩地の自摺と後刷について
恩地は数をすることに関心が低かったことは先に話をしたが、自摺の作品は少ない。自摺作品も頒布用として20~30部、多くても50部ぐらいがせいぜいである。「新東京百景」にしても当時限定50部で出版されたが、恩地が見本刷りをして、それをまねて弟子たち(畦地梅太郎たち)が刷ったものもあったようだ。自摺作品の特徴としては、作品の汚れなど一切気にせず、勢いで摺っている。一見すると汚く見えるが、それこそが恩地摺の特徴でもある。生前中は弟子の関野準一郎が、恩地の死後すぐには平井孝一が、その後、彼の息子の恩地邦郎が代表作(萩原朔太郎像ら)を摺っているがいるが同じ版木を使っても微妙に違う。刷の本職がやると、綺麗になりすぎて、味がなくなってしまう。こんな摺りの違いを楽しむのも版画ならではの魅力に違いない。

―谷中安規―
もう一人紹介したい作家がいる。谷中安規(たになか・やすのり)だ。彼は1897年現在の奈良県桜井市で生を受け、1946年焼け野原になった東京・駒込の掘立小屋で人生を終えた。栄養失調による死であった。彼の生涯は経済的には極貧の生活にもかかわらず、文学者たちに愛され、芸術にすべてをささげた人生であった。「彼はお金が入るとタクシーでコーヒーを飲みに遠出し、無くなると文学者宅にでかけ、無心をする。」そんな逸話が数多く残っている。それでも彼は人々に愛された。彼は料治熊太が1932年に発刊した創作版画誌「白と黒」の同人となり、棟方志功とともに多くの秀作を発表し、当時は鬼才として人気を二分していた。特に、彼は内田百閒や佐藤春夫に愛され、彼らとコラボして歴史に残る名著(「王様の背中」、「FOU」)を残した。私の敬愛する恩地孝四郎も幻想と現実を自由な心で版として表現しえた谷中を高く評価し、生活面での支援を惜しまなかった。棟方は民芸運動の柳宗悦との出会いで国民的な名声を得たが、一方、谷中については悲惨な死とともに忘れられた。彼が再評価されたのは南天子画廊での遺作展(1966)が契機となった。その後何度も展覧会が行われ、人気が高まった。私も松濤美術館(2003)、町田市立国際版画美術館(2014)、兵庫県立美術館(2016)での谷中展を見たが、彼の生き様と彼の幻想的な作品群に対面し、縁があれば自分のコレクションの一部に加えたい強く願った。
*装幀本そして版画雑誌「白と黒」
私の谷中コレクションは恩地と同じく装幀本・挿画本からスタートしている。展覧会の図録に掲載された装幀本・挿画本リストを参考に、夜な夜な「日本の古本屋」を検索し、本を見つけ出すことに精をだした。その結果、田中貢太郎著の怪談にまつわる著作(怪談全集など)を手始めにいろいろ集まってきた。彼が版画家として世に出る前はお化けのような奇怪な人物像をたくさん描いていた。また、木版を使用した装幀本としては内田百閒の著作が多くあり、著作の読書も楽しみながら集めた。版画が挿入されている本としては内田百閒著の「続百鬼園随筆」(1934年 三笠書房)が最初で、その後恩地が編集・装幀を担当した「書窓」で谷中版画が挿入されているものや石川道雄編の同人誌「半仙戯」(1934年 扉絵に谷中の木版が添付されている)3冊など、少しずつ蒐集してきた。
単品の版画作品としては大阪の画廊で偶然みつけた「虎上吹奏」「童子騎象」がきっかけとなり、蒐集に熱が入り始めた。これらの作品は1937年以降の作品で子供たちが無邪気に遊ぶ姿が描かれている。彼の理想の国を描いたに違いない。
谷中の版画作品については、料治熊太が1932年に創刊した創作版画雑誌「白と黒」を抜きには語れない。彼の代表作・秀作の多くが「白と黒」に収録されている。「白と黒」は限定50部あるいは60部で作家自摺作品が添付された仕立てでスタートしたが、限られた部数では採算が取れなかったこともあり、その後、機械刷の「版芸術」(限定500部)が並行して作られた。
私の谷中コレクションでも「白と黒」が重要な位置を占めている。谷中作品が所収された「白と黒」のコレクションは1933~4年の30号(自画像)、31号(ムッテルショウス)、35号(春夜)、40号(弓)、43号(怪鳥)そして1935年の再刊一号(走虎)、二号(句画集)である。「白と黒」には谷中以外の作家の作品も収まっているため、谷中の作品をのみを切り取り、額装したい衝動にかられるが、冷静に考えれば版画雑誌として残すことこそ意味があると思っている。とにかく名品が入った「白と黒」と出会ってしまい、ちょっと無理をしてコレクションに加えた。文字が傾いたり、ページが不揃いな「白と黒」を手にすると手作り感あふれ、当時の版画誌制作への熱い想いが伝わってくる。これもコレクションの魅力だ。
*「王様の背中」「方寸版画・幻想集」
最後に私にとってのまぼろしの大物・稀覯本との出会いを皆さんに伝えたい。まずは内田百閒と谷中のコラボ作品の「王様の背中」の特装本(1934年 限定200部)である。かつて神保町の山田書店で手にしたことがあった。20点余りの宝石のように美しい谷中の小品を眼にして、ため息が出た。価格は60万円だったように思う。当時、谷中を本格的に集めるつもりもなく、また高額であったので、後ろ髪をひかれたがあきらめた。その後、谷中作品が集まってきたため、再び「王様の背中」(特装本)が気になりはじめた。神田の田村書店の玄関先のショーウインドウで「王様の背中」を発見し、恐る恐る見せてもらった。本の状態は極美に近く、加えて墨書で内田百閒の署名もあった。問題は価格である。山田書店での価格とほぼ同額であった。この機会を逃すともう二度と会えない気がした。店主に私が所有する萩原朔太郎署名入りの「新しき欲情」(恩地装幀のため、コレクションしていた)を下取りしてもらえぬか尋ねたところ、思いのほか高額下取りの返事をもらった。それで思い切ることができ、無事、マイコレクションに収まった。聞くところによれば特装本の半分ぐらいは倉庫の火事で燃えたため、残ったのは100部ぐらいではとのこと。とにかくあこがれの君を手に入れた。
最後に「方寸版画・幻想集」(1933年 谷中の木版10点セット 限定500部)についても述べねばならない。
昨年末、竹橋の国立近代美術館での「熊谷守一展」を鑑賞した後、所蔵作品展(MOMATコレクション)をのぞいた際、谷中安規の作品が何点か展示されていた。そのなかに「方寸版画・幻想集」からの2点があり、何故かすごく惹かれた。シュールかつ幻想的な多色木版に手彩色された宝石のような小作品だ。谷中作品を蒐集するなら、ぜひとも欲しい作品群だと直感した。その感動と想いをある画廊で話したところ、後日、眼の前に「幻想集」が現れた。念ずれば、まさに現実になる瞬間であった。10点セットということもあり、高額となったが、分割OKとの協力もあって、晴れてコレクション入りが実現できた。この「方寸版画・幻想集」だが、版画集の形になっており、谷中の言葉などが書かれている。その中では創刊号として限定500部で出版されたとの記述があり、さらに棟方志功をはじめ、3名の作家の「方寸版画集」が出版の予定との記述がある。しかし、調べる限り、谷中の後の「方寸版画集」が出版された形跡がない。また、限定500部ならばもっと市中に出てもおかしくないが、美術館や個人のコレクションを調べても10冊にもならない。どう考えても500部も出版されたとは考えづらい。今後の研究課題としたい。

恩地と谷中の記述に力が入って、ずいぶん長くなってしまった。そのため、「版画コレクションへの招待 その3」として、次回をまとめも含めた最終章としたい。


―恩地孝四郎と谷中安規のマイコレクションー
*恩地孝四郎

                
           あさあけ 1914 月映私輯より

                
         抒情Ⅷ われいかる 1914 月映Ⅱより

                
         抒情 相信ずるこころ 1915 月映Ⅵより

                    
           「風」表紙 1927 多色木版

             
           海 1930 木版 自摺

      
        「カフェ」1930 新東京百景より多色木版

                
        失題 1932 木版「青い猿」の挿画

        
        魚 1934 多色木版「季節標」より

*谷中安規

             
         自画像 1932 「白と黒」30号

   
      ムッテル・ショウス 1933 「白と黒」31号


        春夜 1933 多色木版・手彩色「白と黒」35号

                  
          「王様の背中」の挿画 1934

       
        「王様の背中」の挿画 1934 多色木版

                        
          「王様の背中」の挿画 1934

          
        「FOU」の挿画 1936 多色木版

  
         「方寸版画・幻想集」表紙 1933

  
        僕 1933 「方寸版画・幻想集」より

   
        空 1933「方寸版画・幻想集」より

   
           童子騎象 1937 多色木版