1 サミュエル・バウ(1822~1878) 「アーウェル川」 



 福井 豊(東京都荒川区)

1 サミュエル・バウ(1822~1878) 「アーウェル川」 水彩 紙 28.5×41.0cm  1847年制作

副題に「マンチェスターの近く」と注釈が付く。画家25歳、マンチェスターのロイヤル劇場の舞台背景を描く職にも慣れて、傍ら自分の絵の修行にも打ち込めるようになった頃の若描き作品である。河岸にいる白と黒2頭の馬が帆を上げた運搬船を曳こうとしている。マージー川支流であるアーウェル川と、メドロック川、アーク川が合流する商都マンチェスターは綿織工業の集散地、産業革命を契機の物流増により18世紀末以降、運搬船の頻繁な往来で賑わった。しかし1830年、港町リバプールとマンチェスターを結ぶ蒸気鉄道が敷設され、この作品が描かれた頃は鉄道でも運搬されるようになる。更に1894年にはマンチェスター運河が開通し外洋航行船も入って、20世紀初頭には描かれたような光景はもう見られなくなったと言う。時代のある絵画を見て過去を空想するのも、先端の現代絵画を見て未来を空想するのも同様、見る人の自由な想像それが絵空事の妄想であっても、それを誘発する絵画の力を単純に「絵画の魅力」と言い換えて大きな差異はないだろう。

2 トレバー・ハドン(1864~1941) 「草地の牛」



福井 豊(東京都荒川区)

2 トレバー・ハドン(1864~1941) 「草地の牛」 水彩  紙  24.5×33.0cm 1890年頃制作

水辺に生える草を喰みながら憩う牛たちを描いている。画家の後期の画風と比較してこの作品は初期の若描きと見ている。画家は1886年までロンドンのスレイド美術学校でフランス人画家アルフォンス・ルグロの指導を受けバルビゾン派の画家や作品の知識は吸収していたものと考えられる。バルビゾン派は画家が生まれた頃と同時代のフランスの活動だが時間差で英国の若い画家にも影響を与えたのではないだろうか。バルビゾン派の中でも特にトロワイヨンはこのような牛を題材にした多くの作品を描いて知られている。フランスに印象派が出現する前の19世紀後半のヨーロッパ絵画は自然主義、写実主義の共通の土壌があったから英国ではコンスタブルやターナーらが、フランスではバルビゾン派が同様に評価されたのであろう。20世紀以降、この画家は写実のスタンスを終生に保ちながらも世界の各地を旅して関心の対象を自然から離れた風俗や人物、建築物へと移していった。
 

3 田能村小虎(直入)(1814~1907) 「夏野菜図」



橋本昌也(京都市)

3 田能村小虎(直入)(1814~1907) 「夏野菜図」  文人画   絹本淡彩  35.0×140.0cm 
1845 年制作

 この軸は、弘化2年(1845年)田村直入32歳の時に書かれた小品の絹本淡彩画です。まだ「小虎」と号していた頃の絵で、やんわりとした感じが、鑑賞者の肩の力を抜いてくれています。また登場の夏野菜は、「梅桃(ゆすらうめ)」、「夏蓮根」、そして「菊座南瓜」です。
 梅桃 桜梅桃杏、それぞれ独自の美しい花を咲かすものであり、人も自分らしさが大切であるという意味を持たしているのでしょう。
 夏蓮根 蓮根の花は、泥の中からでも美しい花を咲かす。人もこれと同じという事でしょう。
 菊座南瓜 菊慈童は、菊の露を飲み7百歳迄生きたと言われ、不老長寿薬としての菊花信仰を表わしているのでしょう。そして、この絵は梅清人の写し(筆意)とあり、その梅清人は、中国元時代の文人画家「呉鎮」を指します。字は仲圭、号は梅花道人・梅花和尚で、文人画家「黄公望」「倪瓚(げさん)」「王蒙」と並ぶ元末四大家の一人で、元の山水画様式を確立した画家です。

4 田能村直入(1814~1907)  「福寿老図」



橋本昌也(京都市)

4 田能村直入(1814~1907)  「福寿老図」  文人画  紙本淡彩  38.0×116.0cm 
1906 年制作

 この軸は、明治42年12月に描かれたもので、この1ケ月後に他界しております。この絵は、94歳のお正月を迎えるに当たり、長寿に感謝し万感の思いで描いたように見えます。
 まず「線」を「夏野菜図」と比較してみると、この絵の線は全く硬さを感じさせない。その一方で、杖を途中で切れて描かれておりますが、鑑賞時には一切気にならず繋がっているように見えます。
 この描き方と僅かな彩色が、この絵を引き締めております。
 この絵をじっと見ておりますと、心が和み自然と微笑んでしまいます。それはまるで晩年の鉄斎の絵を見た時と同じような感覚を覚えるのは私だけでしょうか。最晩年において直入の文人画が昇華し、竹田や鉄斎の域に達していたのではないかと思えてなりません。

5 梅原龍三郎(1888~1986) 「男の肖像」



松尾陽作(千葉県我孫子市)

5 梅原龍三郎(1888~1986) 「男の肖像」  パステル  紙  41.2×32.5cm  1914年制作

(入手の経緯) 
今から凡そ20年以上も前のこと。平和島の骨董市で! かつ、小生が発見したのではなく、(当時は)コレクターの某氏が、「松尾さん、作者は解りませんが素晴らしく出来の良い絵が、あそこ(あの店)に
2点、出ていますよ!」とのお知らせあり。
 早速、駆け付ける。有り金全部はたいて(帰りの電車賃にも事欠く始末)この2点ようやく入手。

(作者同定の経緯)
 実はこの2点は、以前、コレクター仲間の展覧会に出品
-----「作者不詳」の「夫婦の像」として-----。
その展覧会の会期中に、いかにも老舗の画廊の大旦那と言ういで立ちの方が観に来られて、「松尾さんとやら!これは「夫婦の像」ではなく、男のほうは「父親の長兵衛さん」、女のほうは「奥さんの“艶子さん”だよ。そして「作者不詳」ではなく、作者は梅原龍三郎だよ。だから「男の像」と「女の像」とでは絵の描き方が違うだろうが!(次葉に続く)

6 梅原龍三郎(1888~1986) 「女の肖像」




松尾陽作(千葉県我孫子市)

6 梅原龍三郎(1888~1986) 「女の肖像」  パステル  紙  41.2×32.5cm  1914年制作
 
(作者同定の経緯)の続き
 それに、左上を良く見て見い!きちんと「良」のサインが入っているだろうが!」と、厳しいご叱正。
(たしかに、大正3年頃までは“龍三郎”でなく、“良三郎”と称していた。)

(この絵の額縁)
 更に、このことは、「絵の出来」とか「画格」とは何ら関係のない事柄ではあるが、この絵の額縁(“元額”と思われる)何の飾りも無い、杉の木地造り。この絵とぴったりと合っていて、仲々の味わいのあるものと思いませんか?

7 三宅克己(1874~1954)   「NEW YORK」



太田貞雄(東京都八王子市)

7 三宅克己(1874~1954)   「NEW YORK」   水彩  紙  24.0×16.5cm   大正~昭和初期頃制作

この絵は、ニューヨークに6年間いた経験から、ダウンタウンの市庁舎方面、特にウルワース・ビルをブルックリン・ブリッジから見た景色と考える。ウルワース・ビルは1913年に完成し、1931年にエンパイアステイトビルに抜かれるまで世界初の超高層ビル(241m)と言われたビルである。恐らく三宅は市庁舎のあるダウンタウンを訪問し、当時の超高層ビルに感銘してこの水彩画を描いたのではないかと推測している。ウルワース・ビルは今も健在であるが、高層ビルが林立するニューヨークでは、このビルが世界初の超高層ビルであると知っている人は少ないのではないか。

8 矢崎千代二(1972~1947)   「アルプス」

 

太田貞雄(東京都八王子市)

8 矢崎千代二(1972~1947)   「アルプス」   パステル  紙  33.0×45.0cm   1922,3年頃制作

矢崎千代二の名前を知ったのは、平成22年に横須賀美術館で菅野圭介展を見に行った時に、たまたま同時開催していた「矢崎千代二の人物と風景展」を見たことによる。展示では、数点の油彩画を除きほとんどがパステル画であったが、まるで油彩画を見ているように重量感のあるものであった。その中で、一番奥のパステル画で、スポットライトの光を浴び山々が黄金色に輝いていた「アルプス」の絵が印象に残っており、こんな絵が我が家にあっても良いなと思っていた。ところがそれから数か月してオークションに「八ヶ岳」とのタイトルでこの絵が出品されており、誰も入札しないため安価に入手できた。図録と見比べても横須賀美術館で展示された「アルプス」と山並みや配色等ほぼ同じであるため、この絵のタイトルも「アルプス」とした。我が家では、この絵を居間に置き、窓から差し込む朝日を浴び、山々が黄金色に輝き、部屋を明るくしている。

9 藤島英輔(1878~1956) 「河岸風景(仮題)」



佐々木征(千葉県船橋市)

9 藤島英輔(1878~1956) 「河岸風景(仮題)」  水彩  紙  34.6×49.0cm 1921年制作

 藤島姓の画家と言えば、大方の絵画ファンは藤島武二の名前を思い出すであろう。しかし、現在は忘れられているが、藤島武二以外にも活躍した画家が実在したことを思い出して欲しい。それは藤島英輔である。英輔は明治37年太平洋画会展に第1回展から出品しており、第3回展においては、二等賞、写真録模様一等賞を受賞している。その後も大正5年第13回展、同7年第15回展の出品作はいずれも宮内庁の買い上げとなるほどの実力者であった。また、日本水彩画会の創立会員であり、その後評議員を務めている。
 この作品には<河岸風景>の題名が付けられていたが、仮題の可能性が高いと思っている。構図は中央左寄り手前に係留中の帆掛け舟を配置し、上部には両側から崖が迫っていて入江であることが見て取れる。引き潮の後であろうか、あちこちに潮溜りや手前の帆掛け船には係留用の綱も見える。画面奥手には人物や係留されている帆掛け舟も複数描かれており、所謂、漁村風景を画家は描いたと考えている。絵の雰囲気は全体に穏やかで、或る午後の漁村風景を描写したと見ており、部屋に掛けて丁度良いと思っている。

10 鹿子木孟郎( 1874~1941 )  「大四明嶽の夜景」



中井嘉文(東京都練馬区)

10 鹿子木孟郎( 1874~1941 )  「大四明嶽の夜景」   油彩   キャンバス   23.0×32.0cm  
1930年制作

この絵は恐らく大津側から琵琶湖と周辺部落をとうして、天台宗総本山延暦寺のある比叡山を月明かりのなかで描いた作品と思います。
山々の落ち着いた色調、月光に照らされた琵琶湖の様子など、見れば見るほど静かな雰囲気を感じます。対象が比叡山と言うこともあってか宗教心も出てくるようにも感じております。
比叡山は双耳峰で大津と京都にまたがる大比叡と左京区に位置する四明岳(しめいがたけ)の総称です。
その様な意味を含めて作者は(大四明嶽の夜景)題したと思われます。

鹿子木孟郎は(1874年~1941年)(明治7年~昭和16年)岡山生まれ、京都で没。始め松原三五郎につき、後に小山正太郎の不同舎に学んだ。度々欧米に遊学し、ジャン・ポール・ローランスに師事し、その主催するアカデミー・ジュリアンに入る。37年帰国、京都室町に画塾を開くとともに高等工芸学校講師となる。38年浅井忠らと関西美術院を創立。39年再渡仏、アカデミー・ジュリアン一等賞を受け、また「少女図」でサロンに入選。昭和6年明治神宮の絵画館壁画、奉天入城図を制作。7年フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章。滞欧期には洗練されたフォルムの充実した裸婦を多く描き、帰国後は肖像画や山岳渓流などの風景画を描いて日本的味を加えた。いずれも確かな写実力を見せる。浅井忠亡きあと京都洋画壇の主導的立場にあった。