11 和田香苗(1897~1977)  「玉座」 



堀  良慶(千葉県柏市)

11 和田香苗(1897~1977)  「玉座」  油彩  キャンバス  53.0×45.5cm  制作年不詳

若し、お暇がありましたら作家のサインを画面の中から見つけ出して下さい。
 ブタペストの英雄広場にならぶ王たちの中心にイシュトバーン1世の騎乗の銅像が立っています。私はその広場に隣接するファインアート・ミュージアムの7点のエル・グレコを今年5月に見に行ったのです。
 美術館の玄関前にソファーがあり英雄広場を眺めることが出来ます。ソファーで想い出していました。
私は三十代半ば研究所勤務から三菱の本社勤務になりました。丸の内のオフイスから皇居前広場は直ぐ近くです。広場のど真ん中に皇居を守るように騎乗した楠木正成の威風堂々とした銅像が立ちはだかっています。
私の父の実家は三重県三重郡楠町(現四日市市)にあります。昔は楠木村と言われていました。堀家の寺、臨済宗正覚寺には碑文があり、楠十郎正信の名が記されその家臣に堀家、阿部家が刻みこまれています。堀家一族の墓は7基あり、年代が明確なのは嘉永年間からです。江戸時代に復活したのでしょう。勿論、楠木本家も臨済宗です。楠城の跡地が整備され史実が徐々に明らかになってきています。お城の近くにある私の実家には石垣があり、武具が残されていました。(少々自慢話となり恐縮です)
さて幾度も国土を蹂躙されたハンガリーですが、独立、今ではEUに加盟しています。西暦1000年に国王となったイシュトバーン1世の王冠が1978年に故国に戻っています。
楠木正成も鎌倉幕府からは悪党と呼ばれていましたが、明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈されました。
後醍醐天皇(南朝が天皇本家)から深く信頼され、最後の最後まで命をかけて天皇を助けました。明治天皇の時代に完全復活したのです。
私はソファーでフッと気が付くとハンガリーが好きになっていました。
さてサインは左下隅に書かれ、かすかに判読出来ます。当時、昇殿を許され玉座を描いた作家は限られていたのでしょう。勿論、サインは不敬のないよう気を配ったものだと思います。

12 内田 巌(1900~1953)  「風景」



谷 吉雄(石川県白山市)

12 内田 巌(1900~1953)  「風景」  油彩  板  23.6×33.0cm  1932年制作

好きな絵を蒐めたいと思う何とも厄介な世界に足を踏み入れてまだ間もない頃から、何故かその画家が若い頃の、特に滞欧作に心惹かれてしまう自分に気付き始めました。一般に、画家は独自の画風を確立したと評価されてからの作品がより尊ばれるのが通例でしょう。しかし、どうも私は、憧れの地で呼吸し、生活して様々な刺激を受ける、その昂揚感や感動を直に画布にぶっつけて描かれた作品の方を好ましく思い惹かれてしまうのです。

 この絵は、私が地元で唯一人絵の話ができるU氏が、関西の某画廊から入手されたものです。見せてもらった瞬間、内田巌の滞欧作に違いないと自分の中で勝手に決めつけてしまいました。その後譲ってもらいたいとの思いを発信し続け、数年後に割愛してもらうことができました。内田の作品については、人物画に佳品が多いように思っていますが、この作品のような風景画にも、少し抑制が効いて派手さはないですが、視る者の心に凍み込んでくるもの(画家の誠実さ?)があり、精神性を感じます。
 

13 山本蘭村(1907~1977)  「子供」



谷 吉雄(石川県白山市)

13 山本蘭村(1907~1977)  「子供」  油彩  板  27.0×21.8cm  1953年制作

 洲之内徹に親愛し、絵に対する思いやその“仕事”を直に見聞きしてこられたG氏にお会いする機会がありました。その折、氏のコレクションの一部を写真で見せてもらった中で、特に強く心惹かれ譲っていただいたのがこの作品です。作者に関してはほとんど何も知りませんでしたが、以前に偶然入手していた「愛と美のノート」という小さな詩画集から受けた印象から、内省が深く精神性の高い作家であるとして心の片隅に残っていたようです。
 この絵に対していると遙か昔に過ぎ去ってしまった幼き日の淡い記憶が蘇えり、懐かしさとほろ苦い甘美さの混じった不思議な感覚に陥ることがあります。今はもう望むべくもない、穏やかな空気に包まれて無防備にすべてを預けきった時間があったことを---。

14 木田金次郎(1893~1962)  「晩秋風景」



小倉敬一(埼玉県さいたま市)

14 木田金次郎(1893~1962)  「晩秋風景」  油彩  紙  22.5×32.0cm  制作年不詳

郷土の風景を愛し描き続けた小説のモデル画家

 木田金次郎は有島武郎の小説『生まれ出づる悩み』のモデルになった画家である。有島武郎は上京して画家の道に進みたい木田金次郎の気持を諭し、地元である北海道の港町岩内で絵を描くことを勧めている。有島武郎の死後、漁師から画業に専念するが、1954年の洞爺丸台風による大火でそれまでの作品の大部分が焼けてしまった。その後、画業を再開し精力的に制作したが、作品が市場に出てくることは非常に稀である。
 この絵《晩秋風景》にはサインがなく、正式の鑑定書もない。ただ、岩内に縁のある方の証明があるだけである。だが、私にとって正式の鑑定書の有無は問題ではない。それは、絵自体の良さと自由・大胆な描き方、そして、暮れゆく晩秋の風景を描いたこの絵からは、地元岩内を愛し、描き続けた木田金次郎でしか描きえない雰囲気・空気が伝わってくるからである。
 この絵に私が特に惹かれるのは空の描写である。雲が浮かぶこの夕空を見ていると、木田金次郎が岩内で描き続けてきたことを思い、なんとも言えずじんとした感傷的な気分になってくる。

15 木内 克(1892~1977) 「裸婦」



鈴木正道(千葉県柏市)

15 木内 克(1892~1977) 「裸婦」  リトグラフ  紙  34.7×51.5cm  1952年制作

 リトグラフ特有の太い線で描かれた、豊満な肢体。見る人間を射るが如き鋭い眼光。暗闇の中から突如、現れた黒豹のようだ。制作当時作家60歳。モデルは20代後半と推測される。
 彼女の面構えからは、モデル稼業はかりそめの仕事ではなく、天職(Calling)という矜持さえ感じ取れる。私は肉体というより、その面貌に魅かれて買い求めた。
1952年1月、駿河台の画廊で「木内克リトグラフ・デッサン・木内岬彫刻展」が開かれている。木内氏は版画をかなり重要視していたようだ。聞書の中でこう語っている。
 「版画はぼくの描いたデッサンより強い線になって却っていいときがある。彫刻家なら誰でも一度はやってみていいものだ」。(和田敏文「木内克の言葉」昭和51年9月27日)
 私はこの作品を見るたびに、堅物のオヤジを想い出す。ヌード写真や画を嫌った女は、いまでは死語となった「あられもない」(とんでもない)を連発していたであろう。脳は弱いが、生来まじめな私を信用していた父を落胆させることは言うまでもない。

裸体(Nudity) 「好色な連中にとってこの上もなく苦痛な、美術に見られるかの特質」。
(アンブローズ・ビアス「新編 悪魔の辞典」西川正身編訳 岩波書店 1983年刊)

16 瑛 九(1911~1960)  「Ballet-Ⅰ」



木村悦雄・正子(千葉市)

16 瑛 九(1911~1960)  「Ballet-Ⅰ」 フォトデッサン 印画紙  27.0 x 22.0cm 1950年制作 

60年の歳月の流れ・今見直され始めそして改めて

 昨年2011年は「瑛九生誕100年」、大きな回顧展が全国ゆかりの美術館を巡回した。フォトデッサンは瑛九が手掛けた作品ジャンルの中で一番数が多く、通算で3000点にのぼるという。
 この作品は1950年に瑛九がニューヨークで個展を開いた時の出品作品。裏に英語で書かれている言葉の中に当時の痕跡が偲ばれる。60年前のあの時代にニューヨークでの個展開催がどのような経緯に沿って成り立ったのか。評価はどうだったのか。今改めて考える。
 フォトデッサンという技法も、結果としての作品も素晴らしくモダンである。今盛りの若者たちによるなんでもありに近い現代アート作品群の中に飾られても、洒落た感覚は際立つであろう。60年前だったら一層そう見えたはず?ニューヨークの鑑賞者の眼にも十分耐えうる内容であったはず?と思うのだがそう簡単にはいかないところが芸術の世界。その後の瑛九の足跡からそれを確信的に読み解くことは難しい。
 最近世界で改めて瑛九のフォトデッサンに注目の視線が向けられているという。直近に開催された国際的現代美術オークションでは、瑛九と同じ時代に生きた世界に名だたる現代美術作家たちの作品に破格のハンマープライスがつけられた。瑛九に限らず、同じレベルにあると私の眼には確信的に映る、それでいて今完全に打ち捨てられている我が国現代美術の先駆者たちに、世界の目が時間の空白を超えて一足とびに注がれることこそ、明るい話題の少ない我が国を蘇らせる起爆剤になる。60年前に制作されたこの作品の中にその可能性の例えが見えてくる。ただその大望の実現のためには、改めて「文化国家」とは何かを国際的視野に立って考えることが必要な時代の中にいる我が国の姿がある。

17 奥村土牛(1889~1990) 「谷桃子像」



木村悦雄・正子(千葉市)
        
17 奥村土牛(1889~1990) 「谷桃子像」 パステルデッサン  紙  25.0 x 21.0cm 1956年制作

土牛そのものの投影・デッサンの持つ力
 日本画家・奥村土牛が1956年に描いた代表作「踊り子」のモデルは著名なバレリーナ「谷桃子」である。谷桃子の名をネットで検索すると必ずどのプロフィール紹介にも奥村土牛「踊り子」のモデルになりしバレリーナとある。作家、モデル双方にとって意義のある作品が1956年に生まれたことになる。60年の歳月を過ぎたこのあとも長く永遠に語り継がれていくであろうことを考えると、一枚の絵が持つ力の大きさを改めて感じる。
 当時10日間の「白鳥の湖」大阪公演を題材に描かれた「踊り子」は休憩中のバレリーナの立ち姿。デッサンをしている間画家もモデルも寡黙だったという。「だろう」「らしい」、寡黙という状況も「らしい」が、実はそれ以上にモデル谷桃子をして「これはもう私ではない。先生は怖い」と言わしめた作品がもつ力そのものが、描く側からしての「土牛らしい」、描かれた結果としての「谷桃子らしい」のである。作品・デッサンの持つ力とはそういうもの、10日間の間に何枚も描いたであろうデッサンのうちの一枚と思われる今回の小品デッサンの中にも、十分その「らしい」がつまっている。
 あまたいる先の見えない到達する答えの分からない闇の中へ突き進もうとしている若きアーティストたちへエールを贈りたい。描き続けて行きつく先の目標は、作家自身が納得する「らしい」への到達、それは決して一時の奇をてらって出来るものではなく、その間同時進行で作家自らが作家自らの内面を磨き練り上げ、その結果として出来上がった自らの「人間性」が生み出す更なる「デッサン・作品」という結果であり、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、作家以外の者がそれに感動するかどうかというもう一つの別な到達点が待ち構えている。それは一隻眼をもつコレクターの眼との対峙。関係ないと言い切る反骨心も大切だが。

18 山下 充(1926~ ) 「公園」

 

野口 勉(埼玉県鶴ヶ島市)

18 山下 充(1926~ ) 「公園」  ガッシュ・パステル  紙  F6  1956年制作

 山下充は1964年渡仏、パリ、カンヌに暮らし制作活動を続けます(2002年帰国まで)。
 在外作家として高い評価を得ていますが屈託ない明るい人柄が作品にも反映し多くの人から支持を受けている理由でもあります。具象描写を自由に崩し色彩を抑えていながら明るくのびのびした表現が特徴です。
 作品は渡仏前、野口弥太郎に師事していた時代のものです。


19 網谷義郎(1923~1982) 「二人」



堀 良慶(千葉県柏市)

19 網谷義郎(1923~1982) 「二人」 油彩  キャンバス 60.6 × 50.0cm 1967 年制作

精神価値の勝利と至福!
ここに挙げた作品は、出会いの瞬間で購入を決めたものです。自分の精神価値と市場価値とを天秤にかけ精神価値が勝れば買う。
このスタンスが無名作家に対しては快いものです。
でも実は私には、この作品に何が描かれているのかが未だによく判りません。
 この作品はその後、2010年大川美術館で行われた網谷義郎展で兵庫県立美術館所蔵作品と共に一番目立つところに展示されました。
私は代表作の一点に昇格したと密かに喜びました。
 題名に「二人」とありますので無理して人間に見ようとしていますが、何か変なのです。不可解な作品です。
私がジャズダンスを楽しんでいることもあり、この作品の二人が楽しそうにダンスをしているように見えてなりません。特にクラシックバレーの動きに見えます。
今年5月27日に絵の撮影が行われておりました。宇都宮義文さんが「これはバレーのダンサーですよ」とほぼ同じ事を指摘されていました。
色彩は少ないのですが画面から優しさ、豊かさ、そして動きを感じます。2012年には神戸BBプラザ美術館で没後30年記念遺作展が開催され、ご遺族から是非と出席の招待がありましたが残念ながら図書プロジェクトの佳境期で時間が取れず出席を断念しました。丁寧に開催のお祝いと招待のお礼を差し上げました。
ご遺族からは膨大な網谷義郎に関する資料が届きました。
 私は比較で作品を買う習性があります。過去のベストテンの作品より良い作品を数十点、数百点の中から一点選ぶ。この作品も60点ぐらいの売り立て展の中で一番良い作品で、しかも一番安価だった作品です。
 今回私が出品した2点ともに2万円でお釣りがあり、作家に申し訳ないと思いながら、ほんとうにもったいないと思っています。
今、名品が安く買える絶好の時期です。

20 堀内康司(1932~2011) 「魚」



平園賢一(神奈川県平塚市)

20 堀内康司(1932~2011) 「魚」  ドローイング  紙  15号  1950年代制作
 
 1952年国画会新人賞を受け、次世代の作家たちの中で異彩を放った鬼才である。池田満寿夫の才能を最初に認め世に出したのはよく知られているところである。1955年、彼の呼びかけでアイオー、池田満寿夫、眞鍋博、奈良原一高で「実在者」を結成、革新的グループとして注目された。しかし30代の頃、なぜか突然、筆を折りそのまま亡くなるまで再び描かなかった。その理由は謎である。70年代以降は、美術評論やプロデュースを手掛け、2011年10月7日に亡くなっている。池田満寿夫は自著「私の調書」で「堀内の作品はビュッフェを更に冷たく堅く重苦しくしたものであり奇妙なリアリティを持っていた」と評している。この作品は丁度、ビュッフェが時代の寵児としてパリ画壇を席巻していた頃と重なる。パリと日本を繋ぐ時代を象徴する奇妙な一枚である。