粋狂老人のアートコラム
          顔に見覚えのある老人のブロンズ像と出会う・・・・早川退一郎
          確認されている作品はいずれも技量が高く魅力的・・・

 
 五年ほど前であったろうか、高さ30センチほどの老人像が目に留まった。作者は「早川退一郎」とあるが、初めて耳にする作家である。しかしながら老人像の足元には、「不退」と読めるサインが確認できた。その時は早川退一郎と不退の関係が不明であったが、後で調べればよいと考え、とりあえず購入を決めた。
 この老人像は、顔にどこか見覚えがあった。記憶を辿ると乃木希典の顔に似ていることに気が付いた。それは顔立ちや立ち姿に凛とした古武士のような雰囲気を感じたからである。老人像は左手で鍬を杖代わりに突く姿勢で、右手は腰ひもの中に差し入れた姿勢で右方向を凝視していると思われる。作業着は作務衣(?)を着用し、足元はなんと裸足であった。当時の農作業は裸足が一般的であったのであろうか?作務衣と思われる作業着の襞は、表現が細部にまで拘った見事な表現で随所に巧みな技が見て取れる。
 ところで、私が気になったのは、作者が老人像を制作するにあたって、農作業の前の姿なのか、後なのかということである。私は、当初、足や鍬に土による汚れの表現が見られないことや、すっくと立つ姿から、農作業の前と考えてみた。しかしながら、老人像の顔を仔細に観察すると、凛としたなかにも目の表現は穏やかで、農作業を終えた安堵感を見て取れることから農作業の後の姿であるとの考えに変わった。
                        
         たたずめる男(仮題) H 22㎝
        
 因みに、ウィキペディア(Wikipedia)によると、乃木希典は「1901年5月22日、馬蹄銀事件に関与したとの嫌疑が乃木の部下にかけられたことから、休職を申し出て帰京した。ただし、表向きの休職理由は、リウマチであった。乃木は計4回休職したが、この休職が最も長く、2年9か月に及んだ。休職中の乃木は、従前休職した際と同様、栃木県那須野石林にあった別邸で農耕をして過ごした。」とあり、手元の老人像を乃木希典と極めた私の考えは強ち間違ではなさそうだ。
これらの情報から、私の推理はさらに深化し、早川の老人像に込めた思いにまで及んだ。それは「部下の事件関与の疑いで休職することになった乃木希典の忸怩たる思い」を早川が忖度し、作品に込めたのではないかという点である。老人像には単なるブロンズ像の域を超えて、見る者を引き付けずにはおかない魅力を備えているからであろうか?私はそのように感じている。
 この辺で作者の早川退一郎について、略歴を紹介したいが不明な箇所も多い点はご理解願いたい。早川は1886年頃新潟に生れる。「不退」と号する。上京した年月や師の存在など不明。1912年1月25日長男、早川亜美(新潟市竜ヶ島に)生れる。21年第3回帝展に≪濱田氏肖像≫東京から出品。23年第2回東台彫塑会展に≪処女≫(石彫)出品。26年第1回聖徳太子奉賛美術展覧会に≪親と子≫出品。30年第2回聖徳太子奉賛美術展覧会に≪たたずめる男≫出品。68年1月15日新潟で没、享年82歳。」とある。
 当時、私は早川について調査するなかで、新潟清陵大学短期大学部宮越敏夫氏(当時準教授)に関連の情報提供を受け、参考にしながら調査を進めた経緯がある。その後、早川のご子息と連絡をとるも詳細は分からずじまいであった。
 最後に老人像の制作年について推理してみたい。私は早川が乃木の生前に老人像を制作していない可能性が高いと考えている。理由は乃木が12年に殉死しており、早川の作品が最初に確認できるのは、9年後であることが理由である。むしろ30年の第2回聖徳太子奉賛美術展覧会出品作≪たたずめる男≫の可能性を期待している。しかし、残念なことに未だ図版などの確認ができていない。
いつものことであるが、作者特定作業には時々壁が立ちはだかる場面に出くわすことが多い。それは先の戦災や関東大震災などで関係資料が焼失していることが大きく影響している。もう一つの要因は個人情報保護法である。それでも一縷の希望はあるようで、当方の調査の趣旨を丁寧に伝えると協力してくれる方々も存在し、その都度、単純に感激し、やる気が出たケースが幾度もあった。
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私の作者特定作業は、今後も関係者との出会いの都度、喜んだり意気消沈したりを繰り返しながら少しずつ前進することになりそうだ。

<参考資料>
日展史  第1回聖徳太子奉賛美術展覧会図録(彫刻之部)   
ウィキペディア