粋狂老人のアートコラム
          イニシアルの片方の文字が消えている静物画・・・・正宗得三郎
          調査開始以来五年でようやく作者に辿り着く

 

 目の前にイニシアルだけのサインの静物画が掛けてある。しかし気になるのは、書いてあるサインのイニシアルが「T、I」読めそうであるが、近づいて見ると何と「I」の文字は「M」と書いた一部分が掠れて見えない状態であった。
 絵は数種類の菊を縦縞の花瓶に挿した《菊花図》である。菊は大輪から小菊まで七八種類はありそうで、バランスよく色の違う菊を配置し、花瓶の下には簡単な刺繍のあるレースの敷物が敷いてある。念のため菊の種類を調べてみると、7月ごろに開花する「夏菊」であることがわかった。花瓶については、色合いから見て金属のようにも見えるが、陶磁器の可能性も捨てきれない描き方である。仮に陶磁器であれば、形態と色合いからみて欧州で制作された花瓶の可能性があると考えられる。菊は19世紀後半に、日本の古典菊がヨーロッパに紹介されるやいなや、一気に人気に火がついたといわれていることから、正宗が滞欧中に菊を描いても不思議ではない。一方、私はこの菊花図を「写実画」の範疇に含めてもよいと考えているが、所謂、今流行りの迫真の写実画には含まない画風である。しかし、この絵には何故か惹かれるものがある。やはり作品全体から感じる雰囲気のようなもの(?)があるようだ。それは作風にどこか欧州の作家の影響を受けたと思える画風を感じたことかもしれない。
                             
           夏菊(仮題)  53.2×45.7㎝ 
ところで、この絵を描いた人物は誰であろうか?私は思い当たる候補者が一人だけ記憶していた。それは「正宗得三郎」である。手元の資料によると、菊花の描き方が似ている作品として、大正10年に《寒菊》、昭和19年戦時特別展に《菊の花》、昭和26年に《小菊と硯》を制作しているほか、静物画も相当数制作していることがわかった。さらに昭和11年第23回二科展出品作《静物》には、刺繍のあるレースの敷物を描いていた。肝心の画風にも正宗との共通点があると考えている。また、サインの件であるが、大正2年頃作の《トックの女》や大正12年作の《秋林》《巴里市の一部》《モレーの夕景》、他に制作年不詳の《風景》はいずれも手元の作品と同じようなサインを使用していた。しかも、《秋林》と《風景》のサインは文字の一部が欠けた「M」を書いており、手元の《菊花図》と同じ筆跡であることがわかった。これらの事実を踏まえて、手元の作品は正宗の作品と判断した経緯がある。その後の調査で、大正7年第5回二科展に出品された9点の中に何と≪夏菊≫が含まれていたことから正宗作品に間違いないとの自信を深めた。他にも制作年は不明ながらキャンバス裏面の汚れ具合からみて、私は大正時代作の可能性を期待している。
 暫くして某美術館が正宗得三郎展を開催していた事実がわかった。展覧会には以前にお世話になったM氏が関わっていたことが判明し、急ぎM氏に照会することにした。すると数日後に本人から連絡が入り、同封の「写真カラーコピーを一目見て正宗の作品と思った」と話された。勿論、現物を見ていないのでとの断りはあった。また、「正宗の戦前の作品は戦災で大部分が消失しているのによく残っていましたね」とも言われた。制作年代について質問すると、時代的には大正12年頃の作品と思われるとも言われ、私の見方とほぼ一致し、内心ほっとした思いであった。
 ところで、この話には続きがある。それは後日、Ⅿ氏から現物を見たいとの連絡が入り、丸の内の某所で絵を見てもらうことになった。当日はⅯ氏の他に某美術館学芸員氏も同席され、現物を見た二人の感想は作品の出来栄えに関しては同じ意見であった。ところが、肝心の作者について、M氏は正宗得三郎を挙げ、学芸員氏は森田恒友であると言われた。結局、その場はそれぞれ自説を展開し、二人の菊花図の作者に対する見方は平行線であった。
私はその後の調査で、森田の制作した静物画が極端に少ないことを確認していた。因みに昭和9年第12回春陽会展に152点(内訳:油絵70点、乾墨15点、水墨67点)の遺作が特別陳列されたが、内、静物画は油彩画の中に≪菊花≫≪花瓶≫の2点のみであった。しかも図版で確認できた≪花瓶≫の画風は、手元の菊花図とは全く違うことがわかった。勿論、油彩に残されたサイン(イニシアル)についても、正宗作品には複数確認できたが、森田は素描のみで油彩は確認できなかった。これらの事実を参考にして、M氏の正宗説を採用し結論付けた経緯がある。
振り返ってみると、作品を買い求めてから作者に辿り着くまでに五年も要してしまった。途中、何度か調査を止めようと思ったが、続けてきてよかったと実感できた出会いであった。
矢張り作品を好きになるということは、肝心な時に「自分が思っている以上の力(?)と執念」を発揮させてくれるようだ。今後もこの力(?)と執念を頼りに特定作業に挑んでみたい!
<参考資料>
     正宗得三郎画集(昭和38年平凡社刊)   日展史
     白馬会 明治洋画の新風展図録  
     白日会展総出品目録 二紀会50年史
     二科70年史  二科画集(1926年)二科画集(1917年)
     みづゑ380号 アトリエ第4巻第9号    
     岡山県美術名鑑(1930年)
     現代作家美人画全集(昭和6年)洋画編(上) 
     資生堂ギャラリー75年史
     第29回二科美術展覧会目録 
     岡山の絵画500年―雪舟から国吉まで展図録
     二紀展図録(1953年)二紀十周年記念展図録(1956年)
     引き裂かれた絵の真相(村松和明著)
     没後40年 色彩の音楽 正宗得三郎の世界展図録