粋狂老人のアートコラム
       作者不詳の大正美人に眠っていた記憶が蘇る・・・橋口五葉
         41歳で逝った画家の鉛筆画を発掘

 

          

               浴後の二人(仮題) 51.8×36.5㎝ 

 私は2011年7月に千葉市美術館で「生誕130年 橋口五葉」展を見ていた。当時の私は、五葉について、木版画で制作された≪髪梳ける女≫が記憶に残っている程度の知識しか持ち合わせていなかった。ところがいざ会場に入り、展示作品を見ていくうちに鉛筆画の素晴らしさに驚いたことを記憶している。五葉の技量の高さもさることながら、モデルの瓜実顔の大正美人に心惹かれた。私は浴衣姿や裸婦をはじめさまざまなポーズの作品群に魅了されてしまった。勿論、400点を超える展示で、展覧会の眼玉である≪此美人(石版)≫や≪黄薔薇(絹本着色)≫、夏目漱石の著書装幀など目白押しであったが、当時の私が一番に印象に残ったのは、文句なく断然鉛筆画をあげたい。いつも同じことを書いているが、その時もいつの日か五葉作品を見付けたいと心に強く念じた記憶がある。
 ところで、話が少し横道にそれるが、私は坂村真民(1909~2006年、詩人)の「念ずれば花ひらく」の言葉が好きである。勿論、日常生活で常に念じている訳ではないが、いざという時に記憶の扉が開き、欲しい作品との出会いを演出してくれる体験を何度もしてきたことが理由である。今回もまさに過去に念じた記憶の扉が開き願いを叶えてくれた。五葉の鉛筆画は以前から欲しいと思っていたが、入手は無理であろうと半分諦めかけていた。ところが幸運にも入手できたのは、私がこれまで培った美術鑑賞スタイルの成果と受け止めている。
 肝心の鉛筆画は、日本髪(庇髪?)のふたりの女性を描いた作品である。作品の構図はふたりの女性が、上段と下段に重なるように配置し、右側を向いた横顔を描き、それぞれ上半身のみを描いている。最初に見た印象は、やはり日本髪に視線が止まり、次に見覚えがあるモデルの顔立ちに気が付いたことである。
 急ぎ書棚から図録を取り出し、鉛筆画を確認すると、間違いなく同じモデルであること、さらにサイン(印)も同じであることが分かった。因みに展覧会には、ふたりの女性を描いた鉛筆画が17点展示されていた。五葉は本画(?)を描くにあたって、モデルの多様なポーズを真剣に研究していたものと思われる。展示された鉛筆画には、すべて画題がついていたが、手元の鉛筆画は何をしているのか不明である。画面を仔細に見ると、浴後と思える薄地の浴衣(?)を着ているようで体が透けて見え、手前の女性は手拭らしきものを手にしている。このことから私は≪浴後の二人≫と仮の画題を付けてみた。
 図録を開いたところ、五葉を知るうえで参考にしたい情報が見つかったので紹介したい。解説文の一部を引用すると、「橋口五葉は、一部に3,000ともいわれる夥しい数の鉛筆素描を残している。制作時期は定かではなく、モティーフはほとんどが女性、その多くが裸婦である。(一部省略)本展で紹介するのはごく一部にすぎないが、素描の内容は実に多彩である。女性の何気ない仕草をとらえたもの、作為的な姿態を見せるもの、ふたりのモデルを組み合わせた絵画的な構成、そしてさまざまなヴァリエーションを見せる浴女たち―。髪の毛一本一本に迫るような緻密な作も多く、女性美と官能美のみならず、凄みさえ感じさせる。総じていえるのは、古典的ともいえる安定感のある構図への志向と陰影表現の乏しさであろうか。重複を避けるため出展はされないが、五葉はモデルに同じポーズをとらせて繰り返し描き、修整と純化を重ねながら、やがて墨線となるべき1本の線を探っていった。その先にあったのは、いうまでもなく木版画である。五葉は浮世絵研究の傍ら、敬愛した喜多川歌麿のような自由で魅力的な描線を会得すべく、素描修業を重ねていた。目の前のモデルからいかに美しい、1本の線を抽出するか―。その研鑚の成果が1918(大正7)年に始まり、没する前年に立て続けに完成する私家版木版であった。」と解説していた。私は企画を担当したであろう学芸員氏が、多数の作品の中から思考しながら選別し、展示に携わった当事者の言葉には、それ相応の重みがあると受け止めている。
 五葉はどのような経歴の画家であったのか、私自身も知りたい思いが強く紹介することにしたい。五葉は「1881年鹿児島市に生れる。99年鹿児島県尋常中学造士館卆。上京、橋本雅邦の門に入り日本画を学ぶ。1900年第8回絵画共進会に出品。東京美術学校予備課程甲種入学。01年東京美術学校西洋画科本科入学。白馬会第6回展に出品。以後7、9回展にも出品。03年東洋汽船会社の懸賞図案で最高位の2等賞。04年胃健「血精」新聞広告図案で3等賞。成績優秀で特待生となる。この頃から、夏目漱石との水彩画絵はがきの交換始まる。05年夏目漱石の「吾輩は猫である」が掲載された「ホトトギス」の挿絵と裏絵を担当。東京美術学校西洋画科本科卆。この後、研究科に3年在籍。07年東京府勧業博覧会第3部図案で2等賞。「日本装飾美術会」の設立に参加。第1回文展に出品。11年漱石の「門」の装幀、泉鏡花の装幀の全盛期。三越呉服店主催懸賞広告で第1等賞。13年国民美術協会第1回西部美術展に出品。16年版画≪浴場の女>刊行。21年2月24日歿、享年41歳。」とある。
 最後にどうしても紹介したい文章がある。それは近代日本美術家列伝の橋口五葉の紹介文の中で、橋秀文氏(当時:神奈川県立近代美術館主任学芸員)が書いていた箇所である。一部引用させてもらうと「明治末期から大正期にかけて、橋口五葉の名を高めたのは本の装幀と浮世絵の美人を描いた版画、それにポスターといった芸術作品であった。五葉は東京美術学校の西洋画科本科を卒業したが、洋画家の道をそのまま歩むことはなかった。ただ、そこで学んだことを基盤として、アール・ヌーヴォ―風のしゃれた装幀を行なったり、世紀末芸術から多くのものを摂取しながら、浮世絵版画に根差す新しい日本的情緒に富んだ版画を生み出していった。(途中省略)この橋口五葉の芸術を考えると、グラフィックな傾向の強い芸術作品をつくりつづけたことが一因なのか、多くの人びとによって洋画と日本画の対立なり区別がなされようとしていた時代にあって、五葉などは、そうした境界線をいとも簡単にすり抜けていったという思いを新たにするのである。(以下省略)」と書いていた。私はこの種の紹介文を目にすると、所謂、私のような美術愛好家の見方とは一線を画した美術研究者としての視線を感じることができ、作家を取り巻く時代背景にまで踏み込んで評価している点はさ
すがという他ない。

 この辺で次の作品との出会いを願いつつペンを置くことにしよう。
次回はさらなる高みを目指してチャンスを待つのも一興かも?


<参考資料>
生誕130年 橋口五葉展図録   美術80年史(森口多里著) 日展史
白馬会 明治洋画の新風展図録  近代日本美術家列伝(神奈川県立近代美術館)