粋狂老人のアートコラム
       五月頃に飾ってみたい芍薬の絵に出会う・・・・・二瓶徳松
         何度も雅号を変えた不思議な画家に辿り着く

 

          

                  芍薬図  46.5×37.7㎝ 

 私は牡丹の絵を所蔵しているが、芍薬の絵は持っていなかったので一枚欲しいと思っていた。そんな思いが通じたのか、一枚の古そうな芍薬の絵に出会った。作者は不詳であるが、何故か気になる作品である。
 絵は赤絵と思える花瓶に白と赤紫系の二種類の芍薬の花が挿してある静物画である。構図は白い花を中心に周りを赤紫系の花で囲むように配置し、全体が間延びするのを引き締める効果を狙ったと思われる。そのことは、葉の描き方を濃い緑色系で力強く描いていることからも分かりやすい。花瓶について、当初、南京赤絵ではと思ったが、よく見ると、花瓶の文様と絵付けが違うことから伊万里焼の可能性が高いようだ。因みに制作年代は、木彫の元額と思われる古い額に入っており、絵肌の小さな亀裂具合からみて大正あたりの作品と推定できる。この作者は写実というよりも、今まさに満開に花開いた芍薬を素直に表現したかったと考えるのが正しい見方かも知れない。それは全ての花が、同じ形がなく自由に伸び伸びと描かれている点から見て取れる。陰影の表現は、花瓶の影の描写から光が右側斜め上方向から左側斜め下方向に射し込んでいることはわかるが、葉の描き方は影の描写を意図的に省いたと思われる。それは先に述べたとおり画面引き締めの一環と私は見ている。
 ところで、肝心の作者は誰であろうか?二瓶の名前で私が知っている画家は、「二瓶大三」と「二瓶等」の二人である。一方、手元作品のサインは「T」とあることから、当初は二人とも該当しないと考えていた。その後も諦めずに調べたところ、「二瓶徳松」の存在が浮かび上がってきた。そこで徳松について調べが進むうちに、二瓶等は徳松本人であり、二瓶等は雅号であることがわかった。徳松はそれ以外にも經松など四種類の雅号を使用していた。
 徳松の略歴は空白部分も多く消化不良部分もあるが、参考までに紹介することにしたい。徳松は「1897年北海道札幌市生まれ。1914年北海中学校在学中に絵画好きの仲間と「団栗会」という校内美術グループを結成、団栗会メンバーで教室に作品展示。15年第1回団栗会展を札幌市内で開催。16年北海中学校卒業。17年第5回光風会展に≪桜草>≪静物>を經松の名前で出品。18年東京美術学校西洋画科入学、その後退学。19年東京美術学校西洋画科に改めて入学。22年平和紀念東京博覧会に≪真珠>を經松の名前で出品。同年光風会展に≪真珠>出品と記す情報もあるが、光風会史によると、平和紀念東京博覧会と重なるため、休催するとある。24年東京美術学校西洋画科本科卆(本名:徳松で掲載)。同年第5回帝展に≪裸婦≫を二瓶等の名前で出品。この頃、東京市内下落合584に居住。26年満州で美術協会を結成。時期不明ながら満州美術協会展で4回受賞。この頃、大連女子美術大学学長を務める。27年札幌で個展開催後、渡仏。29年第10回帝展に≪足を拭ふ女≫を二瓶等の名前で出品。45年下落合から池袋に転居。55年新世紀美術協会委員。68年この頃、中野区沼袋4丁目33-11に居住。71年新世紀美術協会会員。75年「どんぐり会」65周年記念展(札幌大丸藤井ギャラリー)に≪少女≫出品。没年不詳。」これらが判明した内容である。

                「参考資料」
                           
 私は作品の制作年代にも関心があり、特定しようと試みたところ、23年(大正12年)以前の作であろうと結論付けた。その根拠は、24年には二瓶等の名前で帝展に初入選していたこと、さらには 22年(大正11年)の平和紀念東京博覧会に經松(注)の名前で出品していたことが主な理由である。勿論、經松の呼び方が「つねまつ」と読むことが前提条件である。仮に私の仮説が正しければ、27年10月に札幌で開かれた個展出品作≪花(大正11年作)≫の可能性も有り得ると思っている。
 私は二瓶徳松を調べる中で「落合道人」のブログに出会った。この方は下落合周辺の物故画家などについて相当詳しく調べていた。まさに私が知りたい情報のかなりの部分を網羅していた。その中で特に注目したのは、中村 彝の下落合のアトリエに近い(二百メートルちょっと)場所にアトリエを構え、彝を師としていたことである。さらに驚くことに、徳松は師事した彝の作品≪少女像(相馬俊子像)≫を購入していた。私には当時の彝作品の購入額が幾らであったか知る由はないが、すでに高価であったろうことが推測できる。因みに師の作風への思いが徳松の画風に影響を与えたと思われる証拠(?)が見付かった。それは22年平和紀念東京博覧会に出品した≪真珠≫は、原色図版で見る限り「彝の画風を髣髴とさせるある種の雰囲気」を私は感じたことが理由である。
話は少し横道に逸れるが、25年「画廊九段」で開かれた「中村彝遺作展覧会」出品目録に二瓶徳松(所蔵)の≪女の像≫が載っているようだ。二つの作品は同じものである可能性が高いが、≪少女像≫と≪女の像≫が同じ作品なのかは未確認である。
 次に注目したのは、佐伯祐三との校友関係である。勿論、東京美術学校西洋画科へは同期入学であり、クラスの人数も26人と少なく、二人が親しくなるのは容易かったであろう。しかしながら、徳松は何故かその年に退学し、翌年に再び入学しているようだ。その理由は今もってわかっていない。徳松は結果として一年遅れの24年に同校西洋画科本科を卒業している。同期卒業生には、板倉鼎、大森義夫、岡鹿之助、野口謙蔵、渡辺浩三、廣本了などがいる。一方、徳松は27年に渡仏しているが、フランス滞在中の活動状況は分かっていない。ただし、佐伯祐三がパリ郊外で亡くなったころ、佐伯周辺にいたことは確かなようである。これらの空白部分については、今後の調査研究が待たれるところである。
 最後に徳松の現存作品についてであるが、落合道人が言われているとおり少ないことは私も認めるところである。私はこれまで二人の蒐集家が作品を所蔵していることを伝え聞いている以外は把握していない。今回の私の静物画発掘は、徳松の活動研究のためにも貴重であると受け止めている。落合道人が探している「下落合風景」ではなかったが、二瓶等の雅号を使用する以前の作であることは間違いない。約100年前の作品が、アクリルもない状態で無傷であったことは驚きである。
 私が気になっているのは、27年10月に札幌で開いた個展に展示された50点の作品の行方である。現在は大方の作品が行方不明である。しかしながら当時の展示目録には、画題、制作年、売価が表示されており、今後、徳松の作品が見付かれば、画題や制作年などから活動の糸口が見付る可能性があると考えている。この際、他人任せにせず、私が≪下落合風景≫の発掘に挑戦してみようかと思うが、果たして成果のほどは如何に?
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未だ見ぬ夢の世界へジャンプ!
今宵は絵を寝室に仮置きして、夢の中で100年前にタイムスリップしてみたい気分である!
運が良ければ、中村 彝や佐伯祐三に会えるかも?勿論、二瓶徳松にも!
                            (H31年2月記)
 注、平和紀念東京博覧会美術館出品図録の目次の西洋画 原色版には「二瓶經松」とあるが、図版の≪真珠≫の説明には「二瓶徳松」とあり、誤植なのか不明である。なお、参考資料として載せた婦人像は、同展覧会出品作の≪真珠≫である。

<参考資料>
日展史  光風会史(80回の歩み) 美術名典1971年版
全国美術家名鑑(昭和3年度)  平和紀念東京博覧会美術館出品図録
落合道人ブログ情報    創造と苦悩の軌跡(嘉門安雄・徳田良仁編)