粋狂老人のアートコラム
       白昼でも薄暗い明治の台所に注目・・・・・篠原繁三
                古民家園で目にした囲炉裏や竈などの記憶が蘇る

 
作品の入手時期は忘れかけているが、懐かしい土間のある台所風景に注目し購入した記憶がある。私は物故画家を調査する中で、これまで何人かの画家が台所周辺をモチーフに描いた作品(図版)を目にしてきた。それらの作品には、画家が思い思いの画題を付けていて興味深く感じていた。

                
           室内風景(仮題)   22×31㎝

因みに私が目にした主な作品を制作年次順に紹介すると、浅井忠≪農家内部≫≪農家室内≫≪田舎家炉辺≫≪室内≫、五姓田義松≪台所≫、黒田清輝≪台所≫、斎藤俊雄≪台所≫≪筧≫≪台所≫、松本松次郎≪台所≫、河上大二≪煤びたる田舎の厨≫などである。日本人はこのように多様な表現で日常使用してきたようである。具体的には、台所、厨房、勝手、厨、炉辺、炉端、などの用語がみられる。        
 
手元の作品に話を戻すと、篠原繁三による1910年に制作された水彩画である。
作品は囲炉裏で煮炊きをしていると思われ、自在鉤にかけてある鍋を取り囲むように炎が勢いよく上がっている。よく見ると煙は天井まで立ち上り、逃げ場がなく玄関に向かって天井を這っているようだ。囲炉裏の傍には赤子を抱いた母親らしき着物の女性が座り、囲炉裏の中には鉄瓶も置いてある。全体を見渡すと左側に柱、隣に竈、奥には柱、その左側にも柱が見える。竈の奥は格子のある窓が描かれている。視線を右側に移すと、竹籠、木箱、天井近くに掛けられた叩き、柄の長い箒、土間には水瓶、背の高い竹の籠、その奥には玄関戸が開かれて外が見える構図である。部屋には照明器具が見当たらず薄暗く、外光が室内の状況を辛うじてわかる役目を果たしている。私が気付いたのは、薄暗い室内でも、外光が当たっている柱の外側、竹籠の一部、木箱の角、箒の穂の部分などを丁寧に描写していることである。さらに、判然としないが、囲炉裏の傍で、赤子を抱きながら煮炊きをする母親の背中が少し明るいのは、画面右側に障子があることを予感させる作者の意図が読み取れる。私はこれらのことからも繁三は師について絵を学んだと考えている。果たして師は誰であろうか? 
 ところで、作品の裏面右下には「明治43年7月」、左下に「繁三生 篠原印(朱印)」と確認できる。画面表右下部に1910とローマ字サインが読み取れる。篠原について調べてみると、大正13年第1回大阪市美術協会展に≪川口町の風景≫が入選、大正14年第2回大阪市美術協会展に≪山に行く道≫が入選していた。しかしながら、関西の某美術館などの協力を得たが、それ以上の情報は見つからなかった。
 因みに私は当初、手元作品の作者を篠原新三(1889~1966年)と勘違いしていた。その後、調べを進める中で篠原繁三であることが分かった経緯がある。手元の資料を調べてみると、2011年2月頃、長野県信濃美術館の岸田氏から紹介されて、銀座で開催中の日本水彩画会の展覧会会場(展覧会名不明)で碓田順彦氏(当時、日本水彩画会理事長野支部長、一陽会委員)に会っていたことがわかった。目的は碓田氏に作品を見てもらうことと、篠原繁三に関する情報を得たいとの思いであった。結果は繁三の情報は得られなかったが、その場に同席した碓田氏をはじめ日本水彩画会役員からは、作品の素晴らしさに驚きの声が上がった記憶がある。
 篠原繁三はこれだけの技量を持ちながら、文展、帝展などの官展や白馬会展などにも出品実績はなかった。私の細やかなコレクションの中で、繁三もまた謎の画家であり、今のところ作者不詳に属する画家の一人である。
私の希望は、繁三が大阪市美術協会展に出品していた事実から、恐らく近畿圏内に居住していた人物と推測でき、新たな情報発見の糸口になるのではと期待している。


夢物語
某月某日、私は夢の中で、難攻不落であった不詳作品の作者特定を成し遂げ万歳(?)をしようとした瞬間、突然の雷鳴に覚醒し、夢の続きは中断したままで思い出せないでいる。作者特定作業が夢にまで出てくるとは、何と因果なことか・・・

<参考資料>
大正期美術展覧会出品目録 篠原新三作品集