粋狂老人の
     白馬会展に出品するも団体には所属せず画業を続け・・・・田中寅三
     何と「展覧会出品作」が巡り巡って私の手元に・・・

 
 最近でこそ団体などに所属せず、所謂、無所属で活躍し名を馳せている画家が目に付くが、明治生まれの画家では無所属は少なかったのではないだろうか。そんな中で田中寅三の存在は、すごく気になる一人である。私が寅三を知るきっかけは、神田神保町の古書店で偶然展覧会図録を目にして購入したことに始まる。初めて目にする名前であったが、図録の頁を捲ると技量の冴えが心に響き詳しく知りたくなった。
 
 その後の調査で私が注目したのは、東京美術学校西洋画科選科を卒業し、研究科まで修了しているにも拘わらず、現在、寅三が埋もれてしまった点である。因みに明治32年の東美西洋画科のクラスメートは、山本森之助、赤松麟作、広瀬勝平、濵中鐵也と田中寅三の僅か五名である。しかも五名の中で、広瀬勝平(大正9年歿)、濵中鐵也(明治39年歿)は早々と亡くなっており、画業を続けたのは山本、赤松、田中(寅三)の三人だけであった。一方、残された赤松は、第4回白馬会展で≪夜汽車≫が白馬会賞を受賞し、山本森之助も第10回白馬会展で白馬会賞を受賞し、その後も第1回文展で三等賞、第2回文展で≪曲浦≫が二等賞、第3回文展も連続二等賞を受賞するなど華々しく画壇デビューを果たしている。それに引き換え田中は、和歌山県第二中学校で教鞭をとりながら画業も続けるが、これと言った受賞作品もなく、一人取り残された思いが強かったのではないだろうか。私はそのような状況でも、めげずに愚直に画業を続けた田中の取り組み姿勢に何故か共感を覚えるのである。そのことが略歴を調べる中でますます田中の作品を見る眼に多大な影響を与えたと感じている。

       
         秋色の小川(坂川風景) 31.5×41.0㎝

 ところで、最近、一枚の風景画に出合った。第一印象は、細い硬めの筆で描いたと思われる見覚えのある風景画であった。今思いだしても一見どこにでもある普通の風景画である。ただし、よく見れば田中のすぐれた感覚であり、鋭敏な触覚で描かれていると理解している。展覧会図録を確認すると、制作年が不明な作品が大多数であることがわかった。さらに確認作業をすすめると、手元作品と同じ場所を描いたと思われる図版が見つかった。それは≪秋色の小川(坂川風景1959年ころ)>として展覧会に出品されていた。当初、図版の色が手元の作品と美妙に違って見えたので見逃していたが、図録掲載図版と作品を見比べると、まさしく同じものであった。1995年松戸市立博物館で開催された田中寅三展に個人蔵として出品された2点の内の1点であることがわかった。
作品を前にして思いだすのは、この種の作品は収集を始めたころであれば“見逃していたであろう”と断言できる。恐らく当時の私であれば、写実でもなく抽象でもない中途半端な画風に魅力を感じなかったはずである。その後、多数の画家の多くの作品を目にし、知識も積み重ねたことが、手元作品のような写実一辺倒の描写でなく、鋭利な線描のまじった抽象に少し近づいた作品も受け入れるようになったようだ。いまでは写実と少し距離を置いたこの微妙な描写が心憎いとさえ感じている。そういえば松本竣介が「絵は判るのではなく感ずるものだという言葉」を言っていたことを思いだした。現在の私は松本の言葉も素直に受け入れながら収集を楽しんでいる有様で、その変わりように自身驚いている。

この辺でより多くの絵画ファンに田中を知って欲しいので略歴を紹介することにした。田中は「1878年愛媛県宇和島生まれ。85年一家で大阪に転居し書店を開業。94年大阪で山内愚僊に洋画を学ぶ。96年明治美術学校に入学するも閉校となる。天真道場に入学。97年第2回白馬会展に出品。以後3、4、10、13回展に出品するなど盛んな創作活動を展開。99年東京美術学校西洋画科選科卆。同校成績品展覧会で二等賞、三等賞。同期に山本森之助、赤松麟作、広瀬勝平、濵中鐵也がいる。1901年和歌山県第二中学校図画教師なり、06年まで勤務。03年第5回内国勧業博覧会に出品。08年東京帝国大学理学部植物学教室に雇員(14年退職)として着任。13年原田竹二郎、内野猛、柴崎恒信らと五更会を結成。14年千葉県立高等園芸学校(現、千葉大学園芸学部)の図画教師となる。28年昭和大礼記念章。36年銀座・青樹社で「船の油絵」展開催。38年日動画廊で「海と船」展開催。長尾建吉(磯谷額縁店主)追悼記念会合に出席。40年第4回海洋美術展で海軍省買上げとなる。42年千葉県立高等園芸学校退職。45年日動画廊社長長谷川仁の組織した70歳以上の集まり、明治会の会員となる。千葉県立高等園芸学校退職後は、同校の絵画展覧会や海洋美術展への出品と個展開催などを続けたが、次第に中央画壇との交渉は途絶えていった。松戸市に来てからは、地域に根差した活動が目立つ、松戸周辺の風景を画題として多く制作している。61年7月4日松戸市でなくなった。享年83歳。」とある。その後、遺族から松戸市に対し465点の作品が寄贈されている。
 
 少しばかり寄り道となるが、田中に関する情報を加えることにした。以前に読んだ日動画廊社長の長谷川仁著「へそ人生(画廊一代記)」に「明治会」発足の経緯が紹介されているので、田中の晩年を知る参考のために、一部を引用させてもらうことにした。それは『この私の信条のうち、とくに私が敬老の思いをこめて戦後早く組織したつどいに「明治会」があった。というのも、終戦直後は食うものも満足に手に入らず、人心も荒廃し、年寄りなどはそっちのけに、やたらと目新しいものが重要視される世間の風潮が強かった。官展では最年長の一人である三宅克己さんが、戦後の初の日展に参加したところ、何も肩書がないことから初出品の部に入れられたという、そんな時代だった。私は長い風雪に耐えて洋画ひと筋に生きてきた画人が、ともかくも気楽に集まって飲み食いができ、楽しく語り合える会がほしいものだと考えたのである。ともかくも、ひとまず会員のみなさんを、私どもの目黒の自宅にお招きし、何はなくとも心づくしの手料理で、のんびりくつろいでいただくことにして、そのつどいの斡旋役を、私の住まいに近い辻永さんにお願いした。辻さんは、つい先ごろお亡くなりなったが、当時は会員資格の七十歳にはほんの少しばかり間があるときだった。こうしてまとまった「明治会」会員は、原則として七十歳以上の洋画家に限った。三宅克己さんのほか、中澤弘光、吉田博、北連蔵、真野紀太郎、白滝幾之助、田中寅三といったみなさんが参加された。熊谷守一、小杉放庵、山下新太郎、高村真夫、石井柏亭、有島生馬、津田青風、和田三造、斎藤与里、正宗得三郎さんなども会員になられ、つどいはにぎやかになった。しかも、この会合には、ご近所ということで、三笠宮ご夫妻をお招きしたこともあったし、日動画廊にも、会員にも親しい方たち―湯沢三千男、辰野隆、藤村朗、古垣鉄郎、並川義隆、矢吹一夫、猪俣真造、小高義一、岩佐新、田沢田軒などのみなさんの特別参加をえたこともあった。―以下省略―』とあり、長谷川氏は、戦後の荒廃した世の中にあっても、豊富な人脈を有効活用し、画家たちのために活動したことが伝わってくる。田中も会員の一人として楽しい時間を過ごしたであろうことが想像できる。

 最後に余談であるが、調査の途中で興味ある事実が見つかった。田中の展覧会図録掲載年譜によれば、1938年7月1日―5日に田中寅三第3回「海と船」油絵展覧会(数寄屋橋・日動画廊)が開催されたとある。一方、資生堂ギャラリー七五年史にも1938年7月1日―5日田中寅三「船と海」展の掲載があり、会期が「昭和美術協会展」と一部重複しており、二階ギャラリーと三階ホールに分かれての同時開催か、詳細は不明とある。
しかも日動画廊での個展は「海と船」の個展名称で、一方、資生堂での個展名称は、「船と海」となっており、どの時点で誰がミスをしたのか実に興味深い話である。資生堂ギャラリー七五年史によると典拠として「みづゑ」とあったので、念のため手元のみづゑ462号を確認すると、確かに149頁に「田中寅三船と海展 7月1日―5日銀座 資生堂」とあった。この状況から判断すると、日動画廊での個展開催が正しいと思われる。当然、日動画廊には過去の展覧会資料が保存されていると推測できるからである。おそらくみづゑの担当者がミスを犯したのであろう。

≪参考資料≫
松戸に根をおろした白馬会の画家 田中寅三展図録
日動画廊五十年史  みづゑ462号   東京美術学校卒業生名簿
資生堂ギャラリー七五年史   白馬会 明治洋画の新風展図録
へそ人生「画廊一代記」(長谷川仁著)
日本の印象派―明治末・大正初期の油彩画―展図録