粋狂老人のアートコラム
         図画教育に一生を捧げた無名の画家に日の目を・・・・原田隆諦
           私を画家の顕彰に駆り立てた一枚の作品との出会い・・・

 今回の風景画の作者との出会いには、私にとって初体験の出来事があった。それは某作家について調べている中で、資料の中に凄い絵を見付けた。作者の名前は「原田隆諦」とあり、初見の画家であった。その時目にした作品は1918年第12回文展に出品された≪渓谷(水彩)≫で、吉田博の作品と見紛うほどのレベルと感じた。私は急ぎ原田の略歴を調べることにした。ところが文展に1度出品した以外は、官展も含め諸団体展への出品歴は確認できなかった。それでも諦めきれず調査を続けた結果、「原田先生画集」の存在に辿り着いた。しかしながら画集は個人の所蔵であった。

                        
          天竜峡谷  46×34㎝

私はダメ元覚悟で所蔵者に連絡し、画集の一時借用を打診することにした。その結果、画集の貸与はしませんとのことであった。ところが私の熱意が伝わったのか、所蔵者のW氏は画集をコピーし当方に送ってくれると言ってくれた。私は電話口で何度もお礼を口にした記憶がある。W氏によると、以前に所蔵資料の借用依頼に応じた結果、貸した資料は戻ってこなかったという苦い経験をしたと話してくれた。私はW氏の厚意に気持ちの高ぶりを覚えたことは忘れられない思い出である。
 しばらくして、待望の画集が届いたときは探していた作品に巡り合ったような嬉しさであった。さらに嬉しいことに、画集の頁を開くと、カラー図版はカラーコピーでモノクロはモノクロでコピーされており、所蔵者の心遣いに頭が下がる思いであった。ここからが私のいつものスタイルである。まず初期作から晩年作の画風のチェックに十分時間をかけて記憶する。次に画風が変化した時期の特定作業と続く。今回の画集は水彩画が大部分であったが、他に油彩やパステルも掲載されていたため、それぞれの画風の違いも確認する。私にとって、これらの作業は習慣になっているため、苦痛ではなくむしろ楽しい時間でさえある。気になる画家の作品に出合った時に、これらの作業が力を発揮してくれるから止められそうにない。今回の水彩画との出会いもこれらの積み重ねが功を奏し作者が直ぐにわかった。
因みに絵は両岸が切り立った深く狭い谷を描いた風景画である。私が最初に目についたのは、切り立った両岸と川岸の岩場の明暗の描写である。次に岩場に自生する樹木も右側は日陰を意識し濃い目の緑色で、左岸の陽当たりがよいため樹木は少し明るい色で彩色したことが見て取れる。更に上流に見える樹木は陽を浴びていることもあるが、薄めの色を使うことで画面に遠近感を感じさせる。また、両岸の岩場も陰と陽を見事に描き分け、画面のポイントを成しているようだ。川面に目を転じると、水の流れを見せるだけでなく、陰陽をそれとなく表現するなど画力の高さを感じさせる。一方、空は曇空にもかかわらず画面が暗くないのは、画面全体の色の配置が絶妙であるため、見る者に、むしろ爽やかな印象さえ与えている。私は画面全体から受ける爽やかさが購入の決め手になったと思っている。

                                        
          <参考> 第12回文展出品作 渓流

ところで、制作年はいつ頃なのか、画集掲載図版で確認してみた。すると、1923年(大正12年)作の≪越路の朝≫は「HARADA」のサインを使用しており、28年(昭和3年)作の≪中津川≫は「HARATA」と変更していたことが分かった。なお、手元の作品は「HARATA」と確認でき、28年以降の作品と思われる。しかしながら、図版からサインは読み取れないが、24年作の≪中山七里峡≫や32年作の≪寝覚の床≫は絵の対象と画風が似ており、制作時期の特定は難しいと考えている。
最後になったが、原田の略歴を紹介したい。原田は「1885年7月21日新潟県中頚城郡泉村に生れる。その後、本籍は名古屋市東区杉村町に移す。1900年瀧和亭に日本画を学ぶ。08年新潟県高田師範学校卒業。11年東京高等師範学校専修科図画手工科卒業。同年、富山県師範学校教論、後、同校舎監。16年愛知県第一師範学校教論、18年同校舎監。同年、第12回文展に≪渓谷≫入選。19年第八高等学校講師。28年愛知県図画教育研究会総務主任。30年高等官五等待遇。同年、東海美術協会評議員。31年依頼退職、愛知県第一師範学校講師。36年全国図画教育大会総務主任(名古屋市開催)。同年、全国図画教育大会で図画教育功労者として表彰。42年第八高等学校並びに愛知県第一師範学校講師退職。没年不詳。」とある。なお、詳しい年次は不明であるが、画集掲載の本人の挨拶文によると「元来私は画家志望でありまして初の四箇年は専門に日本画を学んだのでありますが中途で高等師範へ入学致しまして洋画を小山正太郎先生に、傍ら日本画を川合玉堂先生に学び、卒業後洋画を中澤弘光先生、岡田三郎助先生に就いて学びました。」と回想している。
原田は略歴からみてもわかるように、当時の大家から学んだことを教育者として指導することに一生を捧げた人物と言っても過言ではない。
因みに私が今までに出会った画家たちは、画家だけでは生計が成り立たないため、図画教師など他の仕事に付きながら画業を続けているケースが大半であった。一方、原田は官展に一度出品しただけで、画家の道を離れ後進の指導に専念したのは誰の影響なのか知りたい思いが残る。
私は今回の出会いは、世間から忘れ去られ埋没した画家の作品に偶然出会えて、幸運にも入手できた喜びを格別なものとして受け止めている。今後も無銘であっても、きらりと光る作品を求め、肩の力を抜きつつ蒐集の歩みを一歩ずつ進めようと思っている。

<参考資料>
日展史 原田先生画集(発行者:鈴木三五郎)鈴木三五郎画集
愛知洋画壇物語 PARTⅡ