田村和司さんのよもやま絵話―――“美”とは?
         第2回  「自然は美しい。絵も美しい。」

 自然の美しさは多くの画家が語っている言葉だが、その美しさを描くことに成功した画家は少ないのではないか

        

お天気の良い日の夕方、居間から夕日を眺めその色の変化を飽かず眺めることが好きでそれは私にとって私を忘れる時間となる。
京都の山に沈む太陽が作り出す風景で、言わば山の夕焼けである。
「あの山は愛宕山」。東京出身の私にとって、連なる山並みの山の名前など全く分からず、京都の友人に聞いた山の中で居間から見える最も高い山と教えられたのが愛宕山であった。従って、他の山の名は知らない。それはどうでもよいことで山並みを染め刻々と変化する夕焼けの美しさは、それを言葉にするのは私にはできない。そして太陽が山の向こうに沈むと私の1日は終わる。

      

図版で乗せたのは、山と海の夕焼けである。
山の方は私が撮ったもの、海は「川西英の夕焼け」木版画である。
いつ購入したか忘れたが確か神戸の道具屋が京都の骨董市に売りに出していたのを買ったものである。
愛宕山を教えてくれた画商でコレクターでもある友人はそれ以来、会うたびに手離す時には譲れと執心である。

私は何故かこの版画に描かれた場所を瀬戸内海と思ってしまう。
学生時代の夏休みに香川県の友人の家に遊びに行ったときに見た風景がそう思わせるような気がする。そう、同じような夕焼けの残照が脳裏にあるのかもしれない。

川西英が海を染めて海の向こうの山に沈む太陽が作り出す光景に出合い、その感動を彫刻刀で刻んだ気持ちがこの版画から伝わってくる。
画家の優れた感性が自然の美しさと異なる美しさを創り出す。
優れた画家は「美」を創り出してしまう。
いままで出会ったことのない美を我々に提示してくれる。

大変ありがたいことであるが、そのおかげで置き場所とお金のことも考えず絵はたまり続けていく。
コレクターの性だから仕方がないと妻には言い訳めいたことを言い続けてきたが
最近、反応しなくなってきたのがチョット気になる。