田村和司さんのよもやま絵話―――“美”とは?
                 第5回「東大寺大仏殿の朝焼け」

 第2回で夕焼けの美しさについて書きましたが、今回は朝焼けの美しさについて。

若い頃の10数年間、薬師寺が遠望できるところに住んでいましたが、薬師寺が美しく見える「大池」という池でよく早朝に釣りをした時以外は、朝寝坊の私は朝の奈良風景の美しさに接したことはありませんでした。
図版に載せた「杉本健吉の大仏殿風景」を入手し,改めて奈良の美しさに気づかされました。
画商とこの絵について朝焼けか、夕焼けか、話し合いましたがどうも朝焼けではないかと
2人の意見が一致しましたので、ここでは朝焼けの大仏殿としておきます。

大仏殿には何度も足を運びましたが、この絵のような美しい大仏殿を見たのは初めてです。
実風景より絵の風景を美しいと思うのは不思議なことと思いますが、人が創り出す“美”はそのようなことを可能にしてしまうのだと、この絵を見て改めて気づかされました。
        

杉本健吉の絵を見たのはこの絵が2度目で多く知りません。
1点目は、大谷房吉という杉本健吉と同じ国画会の画家のご遺族の家で初めて奈良国立博物館内を描いた素晴らしい大作を見て以来でした。他にどのような絵を描いた画家か知りたくて友人である美術本の大コレクターに情報を求めたところ、自選画集なるものを送ってくれました。全17巻の内、9巻でした。1巻がダンボールの大きなタトウに3枚ずつカラー図版が入ったもので、9巻で大きな宅配便で送られてきたのにはビックリしました。

図版を見ていてそれらの絵を描いた杉本健吉という画家の人間としてのスケールの大きさを見る思いを強くしました。
これらの絵と比較すると、私の絵は見劣りしますがそれでも奈良をこのように美しく描き出した画家の美に対する希求のすごさに驚かされました。

この絵に描かれた大仏殿の朝焼けの風景を一度早起きして、見にいきたく思いますが、絵というもののすごさは人をそのような思いに駆り立てるところにあることで、このような思いを抱くとき、「コレクターであることも捨てたものではないな」、と思ってしまいます。