田村和司さんのよもやま絵話―――“美”とは?
                 第6回 「もうすぐ春」

 
2月9日の朝、7時前のこと。
布団の中で目が覚め、ぼんやりしていたところ隣の林で鶯が鳴いている。
今年、初めての鳴き声である。時計を見るとちょうど7時。
暫く聞いていたが「ホーホケケキョ、ケキョケキョ、ホケキョキョ等々、」
聞くに堪えないが、春が近づいていることを教えてくれる。
庭の梅は今、八分咲き。梅の咲く時期に鶯が里に下りてくるのは本当で
鶯と梅を描いた絵を見てきたがいつも思ったのは写生ではない、という事。
鶯が枝に一定時間留まっていることはない。
写生は無理で、私はいつも鶯と梅を別々に写生してそれを合成しているのだと思ってきた。
その様に思うせいか、このような作品は好きになれない。

 私の住む宇治は景色の美しい土地であり、有名なのは宇治橋から見た宇治川と背景となる山々の連なりである。宇治川の流れが生む動きと、それに対するゆったりしてなだらかでドッシリした山々が織りなすコントラスト、そこに光が川面に反射し、えも言えぬ美しさを奏でる。
山が近くにあるためか尾根伝いに鶯が下りてくる。
時の流れが鶯のおかげで止まったように感じ、幸せを運んでくれる。

       

もうすぐ春、に因み「春近く」という木版画の小品を紹介するが、
作者は逸見享(へんみ たかし)。
30代の頃、日本美術品競売のオークションで入手したのが初めて見た作家の作品であった。
暫く「いつみ とおる」という名の木版画家と思っていた。
この作品に、何か青春時代の社会に対する鬱々とした思いを見た気がして購入した。
今もその印象は変わらない。
もう1点「公園小景」という作品を図版で乗せたが、春?の陽だまりの中、公園で憩う人々を素朴に温かな眼ざしで描いている。私は、「ほっとする美しさ」に満ちた作品と思っている。作品以前にこのような作品を創り出した作家の人柄に惚れこんでしまう。
なかなかこのような心情になれるものではない。

           

逸見享の作品は和歌山県立近代美術館で大半の作品を見ることが出来る。
市場にはほとんど出てこない。それは彼が2~3点しか刷らなかったからである。
出てくるのは版画雑誌からの切り取りや、版画集としてかなりの数出版された「水韻譜」という作品である。
私はこの作品が彼の代表作と思っている。
水をテーマに色々な水の情景を見事な版画技術で彫り、彼の素朴で温かな人柄が滲み出た美しい作品である。
この作品に惚れてしまい売りに出された同じものを3点も購入してしまった。
1点で良いと思うのだが、私にとっては何点でも欲しいと思わせてくれる作品である。

鶯に戻るが、春が近づくにつれ里に下りてくる回数が増え、その鳴き声も本来の「ホーホケキョ」に近づいてくる。初夏頃に本来のそれも澄んだ鳴き声を聞かせてくれる。
鶯もそれなりに努力していると思い、きれいで美しい鳴き声を聞かせてくれたときは拍手をすることにしている。

私事だが、昨年70歳になった時、40数年ぶりにギターの勉強を先生について再開した。
生徒の中で最長老である。
目標はバッハのシャコンヌを弾くことで生きている内に弾ける保証はないが、鶯だって、努力している。鶯に負けないよう真似しなきゃと老体に鞭うっている。

絵を見ることも努力が必要と言うのが持論である。
絵を見て感じることは誰でも出来るが、絵がわかるようになるには数多くの作品を
深く見ることだと思っている。
私は深く見るためには、感受性をどれだけ高められるかにかかっていると思っている。
ギターも絵を見ることも技術はもちろん必要だが、最後は感受性に行きつくと思っている。
鶯の力を借りるのも宇治の自然に親しむのもその1つである。

いつの日か絵のわかる日を夢見て。