田村和司さんのよもやま絵話―――“美”とは?
                 第7回「美を見て死ねーーー堀越千秋」

 
                    

最近この本を読んでこのコラムを書くのが恐ろしくなった。
美について書かれた本で、図版とそれについての短い文章が添えられている。
形式は私のコラムと同じだが、堀越千秋という稀有な芸術家が美について深い洞察と
彼独自の哲学で語っているもので、当たり前だが足元にも及ばず恥ずかしくなったのが理由である。

30年程前、「にっけい・あーと」という通信販売専門の雑誌に当時の丸の内画廊が広告を出していたが、それで彼を知った。
当初、何故か女性の日本画家と思いこんでいた。
その抽象画に惹かれたのが“追っかけ”の始まりであった。
そして、画家、カンタオール(フラメンコの唄い手)、陶芸家、随筆家、舞台美術家などなど、多彩な才能の持ち主であることを知った。

初めて会ったのは2011年に東京のセルバンテス文化センターで開催された
「堀越千秋展 わが腸のスペイン」という回顧展の会場であった。
それまでに作品を10数点集め、本も大半は読んでいたが、本人は想像以上の魅力的な男であった。
僅か15分ぐらいの、それも立ち話であったが、同じ1948年生まれの同世代からか、人間性からか、初対面とは思えず旧知の友人のごとく話が弾んだことを覚えている。
その彼が2年前(2016年10月31日)に68歳で急逝した。
余命半年を告げられた癌であった。
亡くなった年のことであったが、ブログの文章が面白く、いつも掲載を楽しみにしていた。ところが突然数か月の間、掲載が途絶えた。
不思議に思っていたところ、亡くなったことを知った。
私は肉親を失ったような悲しみで茫然とした。

「美を見て死ね」は2014年3月14日号から2016年11月11日号まで週刊朝日に連載されたもので、告知を受けた後も書き続けられたことが分かる。
やせ細った彼を心配する人に対し「ガンダイエット中」と笑い飛ばしたというくだりがあるがその心中を思い、私はいたたまれなくなった。

彼はこの本の出版(2017年12月10日初版)を見ずに亡くなった。
堀越千秋は“美を見て、そして、美を生きて死んだ。”と思う。

本の序文に友人であった小説家でギタリストの逢坂剛が次のように書いている。
「美を見て死なない男―――実は千秋君は死んでいない。その証拠に、わたしはしばしばギターを取り出し、千秋君が歌う絶妙のソレアの、伴奏をしている。
わたし同様、読者諸氏も自分の中に生きる千秋君と、交流しているものと信じる。」
私もその1人である。
多くの人の心に残る稀有な人であったという思いがする。

図版は私が気に入っている作品である。
私個人の単なる見方であるが、生命力に溢れたこの作品を見ると人が生きるという事の本質を見せつけられている思いがする。

この本を通読したが、美について多くの示唆を受けた。
示唆は受けたが、それで美が分かるようになったかというと、答えはノーである。
むしろ更にわからなくなったのが本音である。
連載第一回には次のように書かれている。
「小林秀雄は“美は訓練だ”と言った。お子様は甘いものが好き。渋味や苦味を味わえるようになるには、経験が要る。美も同じ」

美とはいったい何なのか、彼が提示した宿題をこれから解いていこうと思う。