荒井由泰さんのアートコラム  
             現代版画のレジェンド「長谷川潔」を訪ねたが・・・

  先に巨匠バルテュスの話を書いたところ、たくさんの方に読んでいただいたので、もう一つ「長谷川潔」をパリに訪ねた昔話を加えることにする。

          
                長谷川潔先生

「長谷川潔」は版画の世界では有名だが、ご存知ない方も多いと思うので、略歴等を記す。1891年に横浜に生まれ、日本の創作版画運動のさきがけとして活躍。一次大戦の終結を待って1918年に日本を離れて、アメリカ経由でフランスへ。フランスでは銅版画の分野で数々の賞を取り、大きな足跡を残すとともに、日本の版画界にも大きな影響を与えた。とくに銅版に直刻するメゾチント(マニエール・ノワール)という技法を復活させ、新しい芸術表現を確立したことで、世界的に有名である。一度も日本に戻ることなく、1980年にパリで没した。版画家「駒井哲郎」の師匠でもあり、まさに日本の現代版画のレジェンドである。

彼が亡くなる2年前、1978年に仕事でパリに出向いた際、ノーアポで長谷川先生宅を訪れたのだ。どうして?と思われるかもしれない。

その理由は1975年に遡る。私がニューヨークの伊藤忠商事に勤めていた時(家の仕事の関係もあり、ラッキーにも現地採用という形で1972−77年の5年近く、ニューヨークで仕事をした)、1974年(当時25、6歳)ごろより、休日の土曜日にはマンハッタンにでかけ、版画収集を始めていた。そこでAndy Fitch(アンディ・フィッチ)という画商との出会いがあった。彼はイェール大学出身のインテリで、コロンビア大学のフランス語の先生から趣味が高じて画商になった人物だ。当時は大学の近くの自宅が画廊を兼ねていた。分割払いでの版画購入がご縁で、私の版画の師匠となり、本物の版画の魅力を教えてもらった。彼から最初に購入したのは浜口陽三「蝶」(1967)だった。

1975年に多分「Hacker(ハッカー)」というアートブック店で、偶然1945年にパリで出版された「銅版画」と題された版画集を発見した。(85ドル)6点の銅版画は入っており、その一点がアクワチント技法で制作されたレース模様が美しい長谷川潔の名作「切子グラスにさしたアネモネと草花」であった。これらはサインのないエディションであったが、フィッチがよくぞ発掘したとほめてくれた。当時日本では40万円ほどで売られており、まさに掘出し物であった。そして、長谷川先生と画商としての付き合いがあったことから、サインをもらってきてやろうと言ってくれた。早速、長谷川先生にお願いの文章をしたため、フィッチに託した。そして、後日サインつきで、左下には「a mousieur Yoshiyasu Arai, bien amicablement K.Hasegawa 1976」(荒井由泰様、友愛の気持ちで、長谷川潔 1976年)と記されて届けられた。版画の世界では署名のある無しでは価値が何倍も違うこともあり、まさに私の宝物となった。

          
             サインをいただいた作品
 
  
            長谷川先生のサイン

前置きが長くなってしまったが、サインをいただいたお礼を言いたくて、長谷川邸を訪問した訳である。そして、その結果だが、家には入れてもらえず、2階の窓越しからの会話だけとなってしまった。もちろんお礼は伝えた。先生からは「次はちゃんとアポイントを取って来なさい」と諭された。2年後には一度も日本にもどることなく、逝去され、最後の会話となってしまった。

長谷川先生は子連れのフランス人と結婚され、そのお子さんが障害を持っていたこともあり、展覧会等で何度も日本に行くチャンスがありながら、家族に対するやさしい気持ちが彼をパリに引き留めた気がする。

彼の版画に対する情熱は半端でなく、すぐれた技術と美意識ですばらしい作品を残した。長谷川先生とのかすかなご縁を大切に感じながら、メゾチント作品も含め、何点かコレクションさせていただいている。前に掘り出した「切子グラスに出したアネモネと草花」と同じ作品でサイン入り(刷り込みサインを入れる前のステート)の美しい摺もフィッチから購入している。この2点を見比べると、サインなしだった作品はラージエディションで紙が違っていること、またこのエディションを刷る前のフレッシュな版の状態であったことで、それぞれを見ると美しい作品だが、比較をすると輝きが異なる。このあたりが版画の魅力ではないだろうか。

         
              別摺の「花」

      
            幾何円錐型と宇宙方程式

長谷川先生は敬愛するオディロン・ルドンに会いたいとフランスに旅立ち、私の大好きな駒井哲郎(1921−76)は長谷川先生を頼ってパリに留学し、晩年も何度か長谷川邸を訪れている。私のコレクションのテーマの一つでもある「駒井哲郎と彼が敬愛する作家たち」として長谷川潔そしてルドンと強く繋がっている。