荒井由泰さんのアートコラム  
                  巨匠バルテュスの思い出

  最近、とみに昔の事を思い出す。
昨年のオークションハウスのクリスティーズでバルテュス(1908−2001)の「ベンチシートの上のテレーズ」が21億円で落札された記事を見て、巨匠バルテュスとの夢のような出会いを懐かしく思い出した。バルテュスは1908年生まれのフランスの画家で、本名はバルタザール・ミシェル・クロソフスキー・ド・ローラであり、伯爵でもある。彼は「20世紀最後の巨匠」と称えられ、日本ではさほど知名度が高くないが、熱狂的なフアンがいる。

       
            ベンチシートのテレーズ

パリのポンピドー、ニューヨークのメトロポリタンと巡回後、1984年に京都国立近代美術館主催で京都市美術館において「バルテュス展」が開催された。その折、バルテュス夫妻と娘さん(ハルミ)がお忍びで福井を訪問されると聞きつけて、海外の美術館で観た彼の作品に魅かれていたこともあり、巨匠との面会をお願いした。福井とのご縁についてだが、バルテュスのスイスのお宅に福井の調理師学校の関係者が調理人として住み込みをしていたのだ。

       
          バルテュス・節子さん・はるみさん

私の強い想いが伝わり、地元の白山平泉寺をご案内したり、我が家で食事もご一緒するなど願ってもない機会を得た。展覧会の図録やポスターにサインをお願いしたところ、快く引き受けてくださった。当日は7月7日だったこともあり、署名には「Tanabata ni1984」と記載いただいた。今となれば私の貴重な宝ものとなった。そして、「スイスに来る時はぜひ遊びに来て」の言葉に甘えて、その2年後の1986年に仕事でスイスに行った際、土日を使ってチューリッヒから小さな村・ロシニエールにあるご自宅を訪問し、歓待を受けるとともに一泊する機会までいただいた。

       
             バルテュス 我が家で

バルテュスの奥様は節子さんで1962年に当時の文化大臣であったアンドレ・マルローの命で「日本文化展」の作品選定で来日された際、当時フランス語の通訳をしていた彼女をみそめて、1967年に結婚された。ご自宅はグラン・シャレ(大きな館)と言われ、18世期に建設された大きな木造家屋だ。かつてはホテルとして使われていた。ご夫妻はこの建物をたいへん気に入り、購入された。その代金についてはピエール・マチス画廊(マチスの息子が経営)に5点作品を描く約束で調達したと漏れ聞いた。すごいなあと思ってしまう。

グラン・シャレでの時間を今でも思い出す。居間に置かれたジャコメッティ(巨匠の友人だった)のブロンズ彫刻やモランディの素描、ボナールやドラクロアの版画が飾ってあった。そこでバルテュス氏とお話ができたこと、ご一緒に食事を楽しんだこと、翌日にはハルミちゃんの馬(誕生日のプレゼントとのこと)を見に行ったことなど思い出す。バルテュス氏は日本の古典も含め、よくご存知で、子供時代のヒーローは宮本武蔵であったことなど語ってくれた。後から知って、残念に思うことはグラン・シャレのとなりにバルテュスのアトリエがあったようで、見学する機会を逸したことだ。

       
              グランシャレ  

       
            グランシャレの食事の後で

      
         バルテュスとともにロシニエール駅にて

1993年に東京ステーションギャラリーで、そして2014年に東京都美術館で大規模な「バルテュス展」が開催されている。その際にはオープニングに招待いただき、短時間だがお会いする機会をいただいた。93年にはバルテュスは健在だったが、2001年に92歳で亡くなった。

         
             バルテュスのサイン

1984年、私の車で小松空港まで送る際、「たくさんの少女を描いてられるが、どうして少女を描くのですか」と聞いたことがある。答えは「シンボルだよ」の返事であった。その先をもっと尋ねればと今になって思う。バルテュスをご存じない方はぜひネットで彼の作品を検索いただき、さまざまな肢体の少女像や時間が静止した街と人々などを楽しんでいただきたい。