【近代日本洋画こぼれ話】 第1回【島村洋二郎 一枚の絵葉書】
水谷嘉弘
「青い眼の光」が印象的な島村洋二郎という早逝した画家がいる(1916・大正5年〜1953・昭和28年)。洲之内徹「気まぐれ美術館」の[〈ほっかほっか弁当〉他](芸術新潮・昭和62年7月号)で紹介され知られるようになった。洋二郎の姪、島村直子さんが顕彰活動をしている。洲之内氏が現代画廊で洋二郎の遺作回顧展(1987・昭和62年8月)を行ったのも彼女の働きかけに因るものだ。
洋二郎は画家になろうと旧制浦和高等学校を中退(1935・昭和10年9月)した後、数年間東京杉並区の里見勝蔵のアトリエに通う。しかし文献や里見の著述等には記されていない。戦中期には既に疎遠になっていたようだ、洋二郎の方から距離を置くようになったのだろう、とされていた(坂井信夫氏の評伝に依る)。ところが先日、横須賀に転居した洋二郎が里見に宛てた近況を知らせる1943・昭和18年9月17日付けの葉書を入手したのである。その親密な綴り振りから二人の関係を見直す必要があるのではないかと考え、島村直子さん、洋二郎の研究者、松戸市戸定歴史館学芸員小寺瑛広氏と面談することにした。お二方は葉書に驚き、見慣れた筆跡の文章を読まれて同様の見解を示された。シャガール作品の絵葉書である点にも注目されていた。直子さん作成の洋二郎年譜には、1943・昭和18年8月横須賀の民家に間借り(住所記載)し秋には岐阜に美術教師として赴任した、とあり借家住まい(間借り先と別住所)した事実も知らなかったそうだ。
直子さんはその後、東御市梅野記念絵画館で開催された第20回「私の愛する一点展」2021・令和3年に洋二郎の【桃と葡萄】(里見勝蔵【秋三果】に倣う作)を出品されたが、その図録に新資料発見としてこの件を書かれた。
(quote)この作品を出品しようと決めてからM氏のメールを受け取りました。里見勝蔵宛ての洋二郎の葉書を手に入れたとのこと。・・・文面は里見氏と洋二郎家族がその後も交際していた事がわかる内容でした。里見氏と洋二郎の繋がりは、弟子になって数年で切れてしまっていたと思い込んでいたので、凄い資料の出現に心底驚きました。(unquote)
私の事にも触れてあり本コラム連載初回にあたり執筆者紹介になるかと思い合わせて引用させていただく。
(quote)M氏は数年前、一般社団法人「板倉鼎・須美子の画業を伝える会」を立ち上げた方・・・代表理事を務める傍ら、当時の美校卒業生に関する研究・資料収集にも熱心。今回の資料を拝見し、更にこの作品が愛おしくなりました。(unquote)
先月(2021年12月)、島村洋二郎紹介本の決定版ともいえる「カドミューム・イェローとブルッシャン・ブリュー」が上梓された。直子さんと前出の研究者小寺瑛広氏の編著で洋二郎に関する過去の出版物、印刷物、記事、展覧会開催記録、年譜などを網羅した集大成、約500頁からなる大部の書籍である。島村洋二郎の名を近代日本洋画史に残し、今後の洋二郎研究の基礎文献となるだろう労作である。お二人のご努力に改めて敬意を表したい。直子さんも伯父洋二郎を知って顕彰活動を続けること37年、一つの区切りを果たされたようでホッとなさっていた。
以下は余談。2020年暮れ、直子さんの活動を取り上げたNHKの「ファミリーストーリー」が再放送された。戦後(1953・昭和28年)3才で米国軍人の養子となった洋二郎の遺児、鉄(米国名テリー、彼女の従兄弟)を探し出したいとNHKに出した手紙が取り上げられ、同番組が米国西海岸トーランス在住の彼を見つけ出すストーリーである。その後二人は再会を果たし、彼女は洋二郎作品【腰かけた少年】1953年作クレパス画、をテリーに贈ったそうだ。この絵は、1953年7月の洋二郎個展(彼は展覧会最終日に大喀血し9日後亡くなる)で梅崎春生(第一次戦後派、直木賞受賞作家)夫人が購入したもの。私は梅崎春生夫人恵津さんを存じあげており、直子さんから預かった手紙と恵津さんが写っている現代画廊回顧展でのスナップ写真を添えて、恵津さん(御歳98才)に旧蔵品の顛末を伝えたのである。
(2022年1月)