粋狂老人のアートコラム
       若き画家を日本脱出まで追い込んだ訳とは・・・・・伊東哲
       絵のモデルがきっかけで誹謗中傷を浴びた悲運の画家

 
 私は十年以上前に新聞の新刊案内を見ていたとき、「藝大生の自画像(河邑厚徳著)」に目が留まり、書評を読んだ記憶がある。当初は本を購入するか迷いがあったが、近くの書店で現物を手にしたとき、本の帯封に『有名無名の画学生たちの「私探し」を読み解く』とあったことが購入に繋がった。確か当時の私も画学生の私探しに参加したくなったことを覚えている。因みに、私は個展や展覧会図録の場合は、すべてに目を通すが、この種の書籍の場合は、とりあえず興味のある頁を読むことにしている。残りはいつの日か必要に応じて読むことが、いつの間にか私の読書スタイルになったようだ。
 ところで、この本に取り上げられた画学生は、黒田清輝のような巨匠から若手の山本磨理(1982~)までの85名である。私はこれまで物故作家については、それなりに略歴や図版などに接する機会があったので、初めて見る画家に注目した。早速、頁を捲っていくと、実に興味ぶかい一人の人物が見付かった。それは「伊東哲」である。私が伊東に引き込まれた河邑氏の書出しを引用すると、「伊東哲(さとし)は、無名の画家です。しかし、残された自画像の不敵な面構えに魅かれて調べ始めました。鬼瓦のようにゴツゴツとした顔が見え、こちらをにらみつけています。調べが進むにつれ、予想外のドラマが隠されていることが明らかになってきました。伊東は運命に翻弄され挫折した人物でした。」と書いてあった。この種の書出しを読んでしまえば、誰しも予想外のドラマとは何なのか興味が湧いてくるはずである。私も例外ではなかった。
 予想外のドラマを知る前に、伊藤の略歴を紹介することにしたい。ある程度の略歴を知っているほうが、ドラマにいたる経緯が理解しやすいと思われるからである。伊東哲は「1891年に金沢生まれ。金沢一中から東京美術学校西洋画科本科に入学。1916年東京美術学校西洋画科本科卒業、第10回文展≪夫婦>初入選。19年第1回帝展に≪野≫入選。20年第2回帝展に≪高原>入選。22年第4回帝展に≪行楽の日≫入選。26年第7回帝展に≪遠足>入選。27年第8回帝展に≪沈思の歌星>入選。この頃、東京市外巣鴨町宮下1695に居住。伊東は第8回帝展出品を最後に公の場での画家としての活動を止め、その後、日本を脱出して台湾に渡り、ダム建設の記録画の制作に従事している。この記録画は台湾・烏山頭の記念館に今も展示されている。伊東は日本に帰ることなく、中国で美術学校の教師として過ごした。日本を脱出する理由は、≪沈思の歌星>に関係して起きた何らかの事件のはずです。79年没、享年88歳。」とある。 

          
                「参考資料」 ≪沈思の歌星≫
          
 ではこの辺で、肝心の「予想外のドラマ」について少し触れてみたい。それは伊東が1927年第8回帝展に出品した≪沈思の歌星≫が問題の発端であることがわかってきた。伊東は肉親にも詳しい事情を話していなかったようである。実は絵のモデルは柳原白蓮(1885~1966)で、白蓮は数奇な運命をたどった美貌の歌人であったが、当時日本中を揺るがす大スキャンダルを起こしていた。白蓮事件は、1921年であるから、新しい女性を待望する機運がみなぎっていた時代と重なる。因みに白蓮は、伯爵・柳原前光の妾の一人であった奥津りょうの子として、1885年東京に生れている。本名は燁子。14歳で親が決めた子爵・北小路家の息子の資武と結婚し、15歳で男児を出産する。ところが五年後に離婚し、実家に戻る。27歳のときに九州一の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚する。しかし、伊藤家の人間関係に苦悩し、心の拠り所となったのが歌であった。燁子は、佐佐木信綱の門人となり柳原白蓮と名乗ります。稀有の美貌と女性らしい感性で詠まれた短歌で注目される人気歌人となり、やがて運命の恋に落ちている。宮崎龍介(東京帝大法学部学生)は、白蓮作の戯曲の上演依頼のため九州を訪れる。これをきっかけに二人は恋に落ちる。まだ一妻の恋愛が姦通罪(1947年廃止)として制裁されていた時代であったため、実るはずのない恋であった。白蓮は宮崎の子を宿し、それをきっかけにして、伝右衛門と別れ、龍介と一緒になることを決断します。白蓮は伝右衛門と上京した際に姿を消し、「私は金力をもって女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の決別を告げます。」という公開絶縁状を朝日新聞紙上に掲載したのです。伝右衛門は、毎日新聞にその反論を載せ、世論はこの話題で沸騰します。天皇の従妹が、富豪夫人の座を捨てて、一学生のもとに走るという大スキャンダルは連日新聞や雑誌をにぎわせました。
 私は白蓮に関する事件(?)の概要についてある程度わかったが、そのことと伊東哲の絵とどのような関係があるのか知りたくなった。
 因みに、絵のモデルとなった白蓮が着ていた着物は、母の叔母にあたる柳原二位のお局さんから頂いた内掛けを着て描いてもらったことが原因となった。この絵には「不倫の末に平民となり再婚した白蓮が、なにをいまさら高貴な衣装を身に付けているのだ」という多くの人々の反感を呼ぶ要素があったようだ。
しかし、その情報を誰が最初に気付き、当時のマスコミに流したのであろうか?
私は内掛けのことを知っていた白蓮周辺の人物の可能性があると考えている。
私は事の顛末は分かったが、何故、伊東哲が白蓮をモデルにした絵を描こうとしたのか、さらにどのような伝手を使って白蓮に近づいたのか知りたい思いが残っている。さらに不可解なのは、東美後輩の里見勝蔵(大正8年卆)や村田良策(大正5年東美美術史科入学)からも作品を侮辱されたことです。伊東哲の心のうちはどうであったであろうか?私は哲自身の心中を推し量るに、複雑な思いが混じりあって、居たたまれない思いであったろうと推測している。
ところで、私は最近、実に興味深い銘のある風景画を入手することができた。絵には「いとう てつ」のローマ字サインと1926の制作年が読み取れる。私は即座に以前に読んだ河邑厚徳氏の「藝大生の自画像」で取り上げていた「伊東哲」を思いだした。念のため薄れかけている記憶を確認するため、本を取り出し確認することにした。すると、私が推測した「いとう てつ」ではなく「いとう さとし」のフリガナが振ってあった。私は一瞬、先走ったかとの思いが頭を過ったが、一方、過去に出会った画家たちの多くが、本名以外に雅号を使用し、サインしていたことを思いだした。そこで、手元資料を調べてみると、官展入選時に一度だけ「いとう てつ」のローマ字サインを使用していた事実が確認できた。これでこの作品は伊東哲の可能性が高くなった。勿論、私が調べた限り、当時の画家に「いとう てつ」に該当する他の人物は確認できなかったことを付け加えておきたい。

         
                郊外風景(仮題) 24.0×33.0㎝
        
一方、伊東が文展や帝展に入選した作品は、夫婦や子供など人物を描いており、今回入手した風景画は非常に珍しいと言える。作品はまず目に入るのが、右側中段から上部に林(森?)が描かれ、手前は畑であろうか凹凸がある白系の物がみえる。大正時代に農家が野菜栽培にビニールを使っていたか不明であるが、その種の物のようにも見える。視線を他に移すと、中央下部から左側上方向に斜めに道が配置され、中段には薄緑系の絵の具が林まで横に塗られ、その上部には複数の人家が配置されている。作品自体は特に素晴らしい出来とまでは言えないが、銘を見た瞬間、いつもの調査癖を刺激したようである。
伊東は資料によると、1924年には石川県河北郡花園村に住んでおり、1927年には東京市外巣鴨町宮下1695に移っていた。私は昭和初期の巣鴨周辺の街並を把握していないので、一概に否定はできないが、描かれた林や畑の様子から上京前に石川県河北郡周辺を描いたと推測してみた。 
 最後になったが、仮にこの絵が伊東哲の作品とすると、26年の制作年からみて、≪沈思の歌星≫の前年に制作されたものである。一方、官展出品作以外では、国内居住時の最後の作品の可能性があると考えている。私はこの絵を見る限り、白蓮をモデルに作品を制作した同じ画家の作品とは感じられず、むしろ、この風景画こそが伊東哲本来の画風を表現しているのではないかと思い始めている。
一方、私の個人的考えであるが、伊東哲と白蓮の間に介在者がおり、両者を結び付ける仲介役を果たした人物の存在が浮かんでくる。果たして、その人物は一体誰であろうか?
私の妄想はさらに深みにはまっていく。それは画家とモデルの関係を思うに、伊東哲が作品を制作するに至った経緯など誰にも話さず、記録も残していない点である。一方、歌人であった白蓮ならば、それらの経緯をメモか日記に書き残していても不思議でないと考えるのが自然でないだろうか?しかし残念ながら、歌人の分野は私の専門外であり、手元に資料もなく、今は専門家に委ねたいと考えている。
注、私は拙文をまとめるにあたり、河邑厚徳氏の著書「藝大生の自画像」の存在が大きく、この著書に出会わなかったら伊東哲作品との出会いもなかったと考えている。

<参考資料>
日展史  全国美術家名鑑(昭和3年度)  
藝大生の自画像(河邑厚徳著)