粋狂老人の
     エングレーバーとして実績を残すも46歳で病死
       二足の草鞋で活躍した水彩画家に注目・・・・・森本茂雄

 

        

            浅間山を望む(仮題) 17.5×24.5cm

 出合いの瞬間、相当古そうな風景画(水彩)に心に響くものを感じた。私は当初、三宅克己の作品ではとの思いがあったが、残念ながら画面を見るとサインが違っていた。しかしながら私には画風から推測して、少なくとも三宅克己周辺にいた人物の作品であると思えた。それは三宅が昭和8年に制作した《箱根双子嶽》に雰囲気が似ていたことである。絵は高台の畑から浅間山(?)を遠望した構図である。山の頂上付近には雲がかかり、広大な麓には雲の影と思われる二箇所を濃い目のブル-で描き、画面に緊張感を持たせる効果をねらったようだ。それ以外にも左右に大小二本の木をそれぞれに配置し、単調になりがちな画面に変化を持たせている。勿論、右下部から斜めに描いた地面と野菜の列であろうか、これらも画面に重要な役目を果たしている。問題は空の色であるが、年数の経過による退色なのか、夕景なのか判断が難しい。
 作者については、種々調査の結果、森本茂雄に辿り着いた。森本は明治19年東京永田町の士族の家に生まれ。三宅克己に師事した後、白馬会洋画研究所に学ぶとあった。やはり私が三宅克己の周辺の人物と見当をつけたことはあながち間違いではなかった。一方、出品歴を調べると、白馬会展(9、10、12回展)、東京勧業博覧会、文展(2~4回、7回展)、日本水彩画会展(会員として1~5、8、10、15回展)、光風会展(1~7回展)にそれぞれ出品し入選していた。引き続き調査するも大正8年の光風会第7回展を最後にその後の活動状況が見付からない。日本美術年鑑によると昭和12年までは、名前が掲載されていた。
 さらに調査を続けるとタイミングよく独立行政法人国立印刷局お札と切手の博物館で『お札の美の背景―森本コレクションから―』展が開催されていることが分かった。早速、照会すると数日後には回答が届いた。受け取った資料には新事実が含まれており、正に胸躍る思いであった。資料によると、森本は14歳で国立印刷局に入局し、デザインや原版彫刻を担当する工芸官(専門職)で、大正から昭和初期にかけて活躍していた。因みに森本が携わった製品は、紙幣では《日本銀行兌換券 丙5円{裏面}の唐草模様の原版彫刻》、他にも原版彫刻3点、図案作成2点を担当している。切手にいたっては14点の原版彫刻や2点の図案作成を担当していた。主な製品としては、《大正大礼記念1.5銭》や《第1回国勢調査記念1.5・3銭》などがあげられる。
 ところで工芸官に求められるのは、図案作成はもとより、原版彫刻においても画力は不可欠であり、工芸官の見習い時分には画学という授業があり、現在と同様にデッサンの修練が日々行われたようである。また、業務外では、局内の工芸官の同僚たちが結成した洋画研究会「紫瀾会(しらんかい)」での活動も技術鍛錬の場となった。因みに紫瀾会には石井柏亭、石川欽一郎、磯部忠一、藤島英輔、肥後彦麿らが参加し、後に山本鼎、平井武雄、荒木芳男らが加わった。勿論、最初に記したように水彩画で白馬会展、東京勧業博覧会、文展、日本水彩画会展、光風会展に出品するなど、活動範囲を広げていったことが本業にプラスに働いたことは容易に推測できる。このような制作活動の努力が実り、本業の原版彫刻においても着実に技術を身につけ、大正11年には高等技術者に任じられるまでとなった。
 説明が前後するが、森本が印刷局に入局したのは、印刷局での紙幣原版彫刻方法が、それまでのヨーロッパ式から、アメリカの証券印刷会社であったアメリカン・バンクノート社で腕を磨いた大山助一(1858~1922年)のアメリカ式へと方向転換しようとした時期にあたる。大山は、歴代の工芸官のなかでも一、二を争う技量の持ち主であり、その直弟子として研鑽を積んだ森本の技術は、大山に匹敵するほどといわれた。森本は晩年結核を患い治癒することなく昭和7年6月3日に没していた。享年46歳という若さであった。
 話しを手元の水彩画に戻すが、作品にはサインのみで制作年などは不明である。今回、同博物館から提供された水彩画コピーには三宅克己の画風の影響は見られず、一方、手元作品には三宅克己の画風の影響を感じることから、白馬会出品作の《田園》か《夏の日》に該当する作品の可能性を期待している。しかしながら、この当時の資料は乏しいという大きな壁があり、解明は難しいであろう。
 ところで、私は粋狂老人などと名乗っているが、絵の蒐集歴は未だ駆出しの身分である。一方、蒐集歴の浅い私でも想定外の体験をすることがあるので、この道ばかりは簡単に止めれそうにない。例えば森本作品を入手してからしばらくして、師匠の大山助一の作品との嬉しい出会いがあった。私はこの不思議な縁に驚きを感じ一人悦に入ったものである。一人の作家作品を入手すると、当事者にはわからない見えない糸で関連作家と繋がっているようだ。
私はその後もひそかに「柳の下の泥鰌」を狙っているが、急がず朗報を待ってみようと思っている。

<参考資料>
日展史  石井柏亭絵の旅展図録  お札と切手の博物館提供資料
大正期美術展覧会出品目録   近代日本水彩画150年史