粋狂老人のアートコラム
          犬のブロンズ像を手元に置くのもいいのかな・・・・石川確治
    何気なく見付けた東台彫塑会出品作に吃驚・・・

 
 古い話であるが、某骨董市に出かけた折、出店の隅に隠れるように並べられていた犬の置物に気が付いた。いつものルーチンで並べられている品揃えを見ると、所謂、ガラクタが主のようで、それらの類が狭い場所に無造作に並べられていた。私は咄嗟に店の主人は、美術品が専門外と直感した。私は主人に声をかけ、ブロンズ像を見せてもらいながら作者を尋ねると、誰の作かはわからないと答えが返ってきた。さらに入手の経緯を尋ねると、面倒くさそうにしながら、取り壊し予定の古い家から、一山幾らでまとめ買いしたことを話してくれた。店主の話では、玩具などの現代物が主で、古いものには興味がないとのことであった。古民家のゴミ掃除も兼ねてすべて買い取ることが条件のため引き取ることになったようだ。私は内心、これは私のペースで取引(?)が出来そうな予感がしたことを記憶している。さっそく犬像を確認すると、材質はブロンズで銘が「1924 kakuji」と読めることがわかった。私は一瞬、嬉しさが顔に出そうになったが、何事もなかったように平静を装いながら、店主に「いくらですか?」と尋ねると想定外の安さであった。私はめずらしくそのまま値引き交渉もせず買い求めた記憶がある。

                        
          ≪伏せをした犬像≫ H11.5㎝ W35.0㎝ 

 因みに、その時に買い求めた犬像は、犬が伏せをした状態で前方を見ている姿を彫った作品である。犬の種類は門外漢のためわからないが、丁度、自宅玄関の専用棚に飾るのに相応しいサイズであった。さらに作品の形状をみると、前足は二本ともに前に出し、身体全体が少しアール状態になるように尾が緩やかに手前に配置し、右後ろ足の折りたたんだ状態が彫り込まれている。視線を頭部に移すと耳が垂れており、顔立ちや全体の印象から大型の洋犬のように思えた。犬像の全体から感じるのは、作者は人体の骨格など基礎を習得した人物であることが作品から一目でわかった。さらに気に入ったのは、箱もないのに全く傷もない状態であることが何より嬉しく感じた。
 ところで、肝心の一番気になる作者は誰なのか、私は銘を確認したとき直ぐに「石川確治」とわかった。その理由は、以前、明治38年東京美術学校彫刻科卒業の「田嶼碩朗」を調べた際、同年卒業の石川についても調べていたことに起因する。でもその時は、このような縁ができるとは夢にも思わなかった。一人の作家を調べる際、その周辺にも調査対象を広げておくと、いつの日かこのような幸運(?)に恵まれるようだ。勿論、調査の範囲を広げることは面倒な作業が付きまとうが、私のような美術史研究者擬き(?)ならではの楽しみ方と割り切っている。
 石川確治を調べるなかで、石川の作品に関する興味深い事実を見つけた。それは森口多里が「美術八十年史」の中の1910年、第4回文展第三部彫刻受賞作について述べている箇所である。一部引用すると「裸体は寓意の興趣に導かれやすく、他方≪墓守>(注)のような現実の一人物を写したものは、その現実感は限定されるのが普通である。しかるに藤井浩祐の≪髪洗い>は、寓意のない現実の一裸女の片膝立てて髪を洗っている平凡な姿であるが、現実感の限定を超えて、あらゆる日本の裸女に普遍する美を抽象していた。そして日本の婦人が豊かに長い髪を下に垂らして洗っているときの裸の姿の一種特殊の曲線美と構成態とが、ここに始めて彫刻として提出されたのである。そういう裸女に於ける微妙な明暗もよくあらわれた。同じような髪梳きの裸女を油絵に描いたのは、大正初期の岡田三郎助であった。藤井の≪髪洗い>は石川確治の≪化粧>及び内藤伸の<湯あがり>と共に特別室に陳列されて一般公衆の縦覧は許されなかった。」とあり、当時の世相を反映した扱いであったのであろう。一方、石川を例にとれば、<化粧>は褒状を受けており、しかも当時の審査委員長が文部次官岡田良平であるにもかかわらず、この種の取り扱いとなった点に矛盾を感じた。さらに驚くことに特別陳列された藤井、内藤の作品も石川同様に褒状を受けていた。私は3作品がどんな作品であったのか見たい衝動に駆られたが、日展史等を調べても図版の掲載がなく、その思いは果たせなかった。また、念のため第4回文展入選作の中に他に裸婦彫刻がなかったのか調べてみた。すると、朝倉文夫、北村西望、北村四海、荻原守衛、建畠大夢等が入選(受賞含む)していた事実がわかった。私は裸婦像に対する警察の取り締まりの線引きが、どこにあったのかますますわからなくなってしまった。
 今回の再調査のなかで、池田勇八が第4回文展に≪動物園の犬≫を出品し、入選していたことがわかった。しかもポーズは少し違うが、伏せをした形状で犬の種類は同じと思われるなど、池田の作品が少なからず石川にも影響を与えた可能性があると思われる。
 この辺で石川確治の略歴を記しておこうと思う。今回は判明した履歴を少し詳しく記したのでお付き合い願いたい。石川は「1881年山形県東村山郡山辺町に生れる。上京。1903年第4回太平洋画会展初入選、以後9回展に入選。04年太平洋画会研究所でデッサンを学ぶ。太平洋画会11月研究会で習作「レリーフ(浮彫)」が優等品となる。05年東京美術学校彫刻科本科卆。10年第4回文展で≪化粧>で褒状。11年第5回文展、第9回太平洋画会展に出品。12年第6回文展に出品、以後9、10、12回展に出品し、7回、9回展で褒状。16年国民美術協会第5回展に出品、6回展出品。19年第1回帝展出品、以後1~7回展、第2回以後無鑑査。11~15回展出品。その間に推薦となり、展覧会委員を務める。21年東台彫塑会第1回展出品、以後2~3回展出品。3回展には<犬>出品。22年平和紀念東京博覧会美術館展に出品。29年第25回太平洋画会展で特別陳列室に≪風景>が展示。30年聖徳太子奉賛美術展第2回展に出品。33年綜合美術展覧会第三部彫塑部門に≪山百合>出品。に35年東京府美術館十周年記念現代総合美術展に出品。松田改組に際し、小倉右一郎、日名子実三等、旧帝展第三部無鑑査級の有志とともに、反帝展を標榜して第三部会を結成、同年第1回展を開いた。第三部会は40年に国風彫塑会と改称したが第二次大戦中解散。38年日本橋高島屋で個展。以後、40年、41年にも開催。51年第7回日展で出品依嘱者。52年第8回日展出品依嘱者。56年2月14日東京で没、享年74歳。」とある。
 肝心のことを書き洩れていたが、少し嬉しいことが見つかった。それは手元の犬像が1924年東台彫塑会第3回展に出品した≪犬≫の可能性が高いということである。制作年が同じで、作品の題が≪犬≫であることから間違いないと考えている。 
 最後となったが、私のいつもの癖(?)で一つだけ気になっていることがある。それは石川が当初デッサンを勉強し、太平洋画会展に油絵等を出品していたのに、私の調査では彫刻家として一生を終えていた。私は今回の調査で、石川の本音は絵と彫刻のどちらに進みたかったのか知りたい思いが残った。勿論、東美彫刻科に入学し卒業していることから、常識的には彫刻を一生の仕事にしようと考えていたとみるのが妥当かも知れない。しかしながら、私は石川の彫刻家として自立してからの油彩画を何度か目にする機会があった。さらに私の考えを後押しするような事実も見つかっている。それは以前に読んだ「金四郎三代記」のなかで、著者の浅尾丁策氏(画材店浅尾佛雲堂主人)が「昭和11年3月1日(日中晴夜雪)石川確治様へ額縁小品届ける。創作額縁売れる。」と当時の日記に書いていたことからも強ち間違いではなさそうである。私はこれらの事実を見ると、石川が彫刻と絵の二刀流で活動したかったのではとの見方が自然に湧いてくる。果たして本当のところはどうであったのか知りたいものである。
 注、≪墓守≫は朝倉文夫が明治43年第四回文展に出品し、二等賞を受賞した作品である。因みに、一等賞は該当がなく、重要文化財に指定されている荻原守衛の≪女≫は三等賞であった。

 <参考資料>
山形の近代美術(村山鎭雄著)    
美術八十年史(森口多里著)
日展史   
平和紀念東京博覧会美術館出品図録
もうひとつの明治美術展図録   
谷中人物叢話 金四郎三代記(浅尾丁策著)
綜合美術展覧会作品集