粋狂老人のアートコラム
          今まで見過ごしていた天神様の絵に驚きの事実が・・・・遠藤数馬(高璟)
          幕末から明治に活躍した貿易商「圓中孫平」の家宝とあるが?

 
今年5月に元号が平成から令和に改元されるや、大宰府天満宮が観光客から
脚光を浴びている情報を目にした。その理由は新元号の令和が『福岡県太宰府市にあった大伴旅人邸で開かれた「梅花の宴」で詠まれた32首の歌の序文』から採用されたことがきっかけとなったらしい。
 一方、その大宰府天満宮は、菅原道真(天神様)をお祀りする神社であることは広く知られている。菅原道真は無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903年)2月25日、道真公は生涯を閉じている。 その後、朝廷でも無実が証明され、人から神様の位に昇られた道真公は、太宰府天満宮に永遠に鎮まり、「学問の神様」・「至誠の神様」として現代に至るまで永く人々の信仰を集めている。菅原道真については、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」の和歌を忘れることはできないので付け加えておきたい。
                        
            天神像  21.9×14.2㎝
 前置きが少し長くなったが、私の手元に「天神様」の古い肖像画がある。私はこれまで軸装された天神様の絵(肖像画)を何度も目にしてきたが、自分で購入するほどの魅力を感じたことは一度もなかった。しかし、今度の出合は、これまでとは少しばかり勝手が違った。理由は絵の古さもさることながら、裏面に書かれた墨書きの説明文が妙に気になった。墨書きの内容を紹介すると、「遠藤数馬高景先生の謹写サレタル天神様ナリ 先生はアメリカン渡来の特別画具にて書いたと云う 子々孫々に傳へ家宝として保存せらるべし 圓中孫平」と書いてあるようだ。説明文には絵の作者と所蔵者の名前が書いてあり、私の探求心に火がついた。私は心躍らせながら、まず、作者から調べてみようと調査を開始した。すると意外に簡単に絵の作者が見つかった。  
 さらに当時の所蔵者についても同じように難無く見つかった。自分としては、両者とも名前からみて明治以前の人物と思えたので、調査は難航するものと考えていた。ところが蓋を開けてみれば、何の事はない簡単に見つかり拍子抜けであった。
 まず、遠藤数馬(高璟)を調べ始めたら、数馬を知るうえで打って付けの情報がみつかった。それは『平成28年度博物館実習 金沢大学資料館企画展「ハカリモノ――文系学生が紹介する科学実験機器」』で高橋広実氏が発表した文章である。数馬に係る箇所を引用させてもらうと、「遠藤数馬は加賀藩の玉井次郎の次男(四男)として天明4年(1784年)に生れ、寛政5年(1793年)10歳の時に遠藤家の養子となります。その後、加賀藩の作事奉行、普請奉行、金沢町奉行、算用場奉行など加賀藩の要職を務めた。藩の重職につく一方で彼は「科学技術者」でもありました。金沢町の精密な測量、彗星観測、地球の直径の測定、加賀藩独特の日時計の製作をしました。藩の役職において、時刻制度を整える命を受け、そのため正確な時間を測る機器を多く製作しました。以降省略」とある。他の資料によると数馬は1864年(元治元年)に没している。また、数学史研究(通巻105号)1985年4月~6月には、数馬は加賀藩で「加州金沢御天文方 二百石を領す」とあり、若しかしたら、絵を描き、焼物を焼き、多くの発明をし、幅広い分野で活躍した平賀源内のような存在であったのかも知れない。
 ところで、私のこれまでの調査では、数馬が絵を描いていたという資料は見つかっていない。仮に数馬の真筆とすると、誰に絵を学んだのか?さらに何故に天神様の絵なのかなど興味が尽きない・・・・・。もしかすると、科学技術者としての顔を持つ数馬は、世間から学問の神様と呼ばれた「天神様」の肖像を自分の為に描き、身近に飾っていたのではないかと推測してみた。
 一方、その「天神様」を何らかの伝手で入手したのが「圓中孫平(1830~1910年)である、勿論、入手経緯は不明であるが、孫平は家宝として所蔵することを墨書きしている。絵を見たところ銘は見当たらず、なぜ遠藤数馬(高璟)の作とわかったのか不思議に思える。
 因みに数馬は1864年(元治元年)に没しており、一方、圓中孫平は1830年(天保元年)生れであることから、両者は年代的には面識があった可能性もある。当時、数馬が加賀藩の有名人であった点を考慮すれば、私は圓中孫平が数馬に絵の制作を依頼してもおかしくないと考えている。若しかしたら、多才な人物の絵を商売上のお守りとしたかったのかも知れない・・・・。
 ところで、圓中孫平については、「金沢墓誌や石川県史」によると詳しく紹介されている。それらの一部を抽出し紹介したい。その紹介文を引用すると、「越中の人、1851年(嘉永4年)金沢中野屋の養子となり後を継ぎ、商号である「圓中」を加賀藩から苗字として名乗ることを許される。幕末、外国貿易に志ざし大阪に「増亀組」という貿易商会を創立。輸出品を取り扱った。1873年(明治6年)明治政府が初めて参加したウイーン万博に娘婿の文助を技術伝習生として現地へ派遣した。陶磁器を学ぶ納富介次郎(日本の伝統工芸品を近代化し、海外へ発信することを目指した先駆者であり金沢工業学校の初代校長を務めた)も加わっていた。1876年(明治9年)米国フィラデルフィア万博に孫平自ら石川県産の物品を携えて渡航し、銅器、陶器、製糸、製茶はすべて一等賞牌を得た。欧米人の嗜好や流行を調査した。現代でいう「マーケティング・リサーチ」を行ったことは特筆すべきと福井太氏は著書(陶芸のジャポニズム)で述べている。爾来欧米の大小博覧会に加賀国産品を出品して聲価を博し1878年(明治11年)横浜に輸出雑貨商「円中組」を開業し、九谷焼をはじめとする工芸品、製糸・製茶・雑貨を扱い、業績を伸ばした。1884年(明治17年)、起立工商会社パリ支店の負債や在庫品をそっくり引き受ける。これ以降、業績が悪化し、パリ支店を閉鎖する。表舞台を去った孫平は、金沢に帰って片町に住み、漁網を製造して北海道で販売した。晩年は郵便局長を務めたとも伝わっている。1890年(明治23年)金沢商業会議所(金沢商工会議所の前身)の創立事務委員となり奔走した。91年同商業会議所の特別会員に推薦。1910年金沢で没。享年80歳。」とある。
 私がここまで調べてきて気になっていることがある。それは絵の材料が油彩絵具と思われ、数馬は絵具を誰から入手したのであろうか?勿論、絵を誰に教えを受けたのかも謎のままである。因みに、資料によると、国内ではすでに1789年(天明9年)頃には司馬江漢が<学術論争図>を油彩で制作し、1805年(文化2年)には荒木如元が<瀕海都城之図>を油彩で制作しており、当時、海外の油彩絵具が国内に出回っていたことが分かる。ほかにも制作年は不明であるが、平賀源内の<西洋婦人図>なども早い時代に描かれた油彩画である。
 更に気になるのは、孫平が絵の裏板に「アメリカン渡来の特別画具」と墨書きした箇所である。資料によると、数馬が1858年(安政5年)に書いた著書「駅路旅鈴」が現存している。内容は江戸―金沢間。各宿駅の様子などの情報が記されているようだ。このことから、数馬が江戸まで旅しており、江戸で油彩絵具を入手した可能性も考えられる。私は当初、孫平から入手していたと推測していたが、そうではなく、数馬自身が江戸で入手していたと考えるべきかも知れない。仮に油彩絵具を自身で入手したとして、問題は絵を誰に学んだのかである。私は当初、高橋由一も学んだアメリカ人雑貨商夫人のショイヤーを取り上げた。しかしながら、ショイヤーの在日滞在期間が1860~1865年であることから、数馬の没年(1864年)を考慮すると無理と判断せざるを得なかった。むしろ当時、海外から持ち込まれた油彩画を目にし、独学で描いた可能性が高いという推理に変わった。
 その後の調査で数馬が絵(泥絵)を描いていた事実が判明した。詳細は不明ながら、三隅貞吉なる大阪在住の研究者が数馬の風景画を所蔵していた。さらに数馬は著書中圖法及び畫法を研究したる寫法新術の内容に「物の像を模するの法に体写・面写の二種ありとせり。体写は彫刻にして面写は絵画なり」と専門的な研究もしていたことがわかった。これらのことから絵画についても研究し、自身で絵を描いていたことが裏付けられ嬉しい限りである。
今回の出合は、作品の芸術的価値はともかく歴史的資料価値があると考えている。ひとり新発見とつぶやいてみるが、果たしてどうであろうか?
注、遠藤高璟(えんどう・たかのり)の本姓は玉井、字は子温。通称は数馬、是三。号は紫山。

<参考資料>
高岡市美術館提供資料     
美術という見世物(木下直之著)    
近代の美術 41 19世紀日本の洋画(岩崎吉一編)