粋狂老人のアートコラム
          「蝋燭」の絵に魅せられて入手してしまった・・・・髙島野十郎
          目をあざむくリアルさに心奪われ・・・・

 
 この頃は、多くの人たちが美術館に足を運ぶ時代になったようだ。以前であれば、話題の作品が展示される企画展以外は、それほど多くの観客を目にすることはなかったように思う。私がいつも気になることは、多くの人たちはどのような思いで絵画鑑賞をしているのか常々知りたいと思っている。以前の私に当てはめれば、特に目的もなく見ていたので、美術館を後にする頃には、見てきたばかりの内容を忘れてしまう有様であった。それが或ることをきっかけとして、目的を持って鑑賞するスタイルに変わった経緯がある。
 最近、新聞のスクラップを整理中に、絵画鑑賞に関して興味深いニュ―スを目にした。それは2019年11月9日付け日本経済新聞(夕刊)に掲載された「ジュネーブ音楽コンクール 作曲、高木さん優賞」の記事である。記事の一部を引用すると、「若手音楽家の登竜門、ジュネーブ国際音楽コンクールの作曲部門の決勝が8日、スイス西部ジュネーブで開かれ、大阪音大助手の高木日向子さん(30)=兵庫県尼崎市=がコロンビアのダニエル・アランゴプラダさん(32)と共に優賞した。」― 一部省略―「高木さんの曲は、今回のコンクールの課題となったオーボエが主役の合奏曲で、フランス語で「瞬間」を意味する「Ⅼ、instant(ランスタン)」。「音が減衰と上昇を繰り返す、その境目の瞬間を切り取りたい」という思いを、高木さんが込め作った曲。画家、高島野十郎が描いたろうそくの絵にも触発されたといい、ゆらめく炎のようなゆったりとしたテンポに、時折激しさが交じる。以下省略」と紹介されていた。絵画鑑賞には多様なスタイルがあると思うが、高木さんのような感性で作品を鑑賞し、自身の本業である作曲に生かし、世界的なコンクールで優勝するとは驚きである。
   
         
          蝋燭    22.5×15.5㎝ 

私は記事を読み終えたとき、彼女の感受性の凄さに脱帽し、暫くスクラップ整理の手を止めている自分に気付かなかった。
 因みに、私は手元に野十郎の<蝋燭>を所蔵している。蝋燭の絵は展覧会で何度か目にしたが、一つとして同じものはなく、微妙に違う描き方をしていた記憶がある。それだけに素人が軽々しく真贋を判断(?)するのは至難の業と考えこれまで距離を置いてきた。
 ところが、私が目にした蝋燭の絵は、今までに感じたことがない直感が働いた。多田茂治氏の受け売りであるが、「一本のろうそくの絵は、ほとんどサムホールサイズの小さな板絵だが炎の表情は一枚一枚みな違う。その折々の心情、祈りが、炎の色、ゆらぎに映ったのだろう。雄渾に燃える炎もあれば、ひっそりと静まる炎もある。若い炎もある。老いた炎もある。そのすべてを、野十郎は心をこめて、丹念に、丹念に描いている。」と書いていた。さらに「このろうそくの絵は売り絵ではなかった。この世で自分とやさしく触れ合った人々を、野十郎は、仏縁、仏の加護と受けとめ、感謝の気持ちを込めて多くの人に贈っている。野十郎のお供物だった。だから、絵をもらった多くの人が、いまも仏壇のかたわらに飾っている。」と核心部分に触れている。私はこれらの情報も野十郎作品蒐集の重要チエックポイントとして活用している。
 私はこれまで<蝋燭>の絵を目にしても興味を示すことはなかった。それは、野十郎がそれほど多くの<蝋燭>を描いているとは思えなかったので、贋作の可能性を疑い買い求める勇気がなかった。ところが、今回の出合は事情が違った。私が購入を決めた大きな理由は、野十郎が<蝋燭>の絵を人に贈るとき、「贈」ではなく、彼が辿り着いた言葉を絵の裏面に書いていたことである。手元の絵の裏面にもまさにその文字が確認できた。さらに秩父三十四番札所の文字も確認でき、野十郎は1971年9月、10月移転先探しを兼ねて、秩父札所の観音院や法性寺等を巡っている記録も残っている。私はその折に地元のお世話になった方に贈った可能性が高いと極めた経緯がある。
 野十郎の作品は、初めて目にした時から好みの画風である。とくに細部にまで拘る執拗なまでの細密描写は、野十郎ならではの雰囲気があり、思わず引き込まれてしまう。一方、蝋燭の絵は、画面に一本のろうそくが描かれているだけなのに見飽きることがない不思議な作品である。心を研ぎ澄まして見ていると炎のゆらぎまで伝わってくる。それだけに、写実の言葉だけでは語れない深みを感じる。そのことを裏付けるように、展覧会場では、蝋燭の絵の前に釘付けとなっている人たちを何度も見かけた。絵には外の喧騒を忘れさすような静かな気持ちにさせてくれる一面も持ち合わせているようだ。
 このところ野十郎は写実画家として名声を博しているため、略歴は省略してもよさそうであるが、参考までに紹介することにした。野十郎は「1890年8月6日福岡県生まれ。本名高嶋弥寿、字は光雄。兄は詩人の高島宇朗。1909年福岡県立中学明善校卒業。12年旧制第八高等学校卒業(現、名古屋大学)。16年東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業したにもかかわらず、小さい頃から夢だった画家の道に進む。21年松田諦晶らと芸術論を交わす。24年銀座資生堂美術部で油絵小品展を開く。28年五味清吉、間部時雄、梶原貫五らと「黒牛会」を結成し、第一回展開催、以後、30年第三回展まで開催。29年大連、満鉄社員倶楽部で個展。30年米国経由で渡欧。33年帰国。久留米に戻る。35年生田菓子舗で個展。37年日本橋・白木屋で個展。39年大阪・朝日会館で滞欧作品展。41年銀座菊屋で個展、以後、43年にも開催。50年第3回示現会展に招待出品。51年銀座・資生堂で個展。57年博多大丸で個展。59年日本橋・丸善で個展。63年「芸術新潮」八月号で、中原佑介が「この画家の存在を・・・<憑かれた人々>において、野十郎を紹介する。65年日本橋・丸善で個展、以後67年、74年にも開催。71年移転先を探して秩父札所を巡る。75年9月17日歿、享年85歳。」とある。これら略歴から活動内容がわかるように、示現会に招待出品した時期を除き、晩年まで無所属で個展を中心とした画家人生を貫きとおしたことが分かった。
 私は書斎の小さなスペースに<蝋燭>を飾り、絵を見る機会が増え、所蔵者としての喜びを噛みしめている。勿論、それは美術館の人込みの中で、他人に遠慮しながら鑑賞するのとは異なる感情が湧いてくる。絵が我が家に居場所を見つけてからは、「どうぞ好きなだけ見て下さい」と言わんばかりに語りかけてくる。因みに、絵を自由に見ることができるため、文章で表現しようと試みるが、相応しい言葉が思いつかず悶々としている。果たして、いつになったら絵に相応しい言葉が見つかることやら・・・・・。
 

<参考資料>
髙島野十郎画集    野十郎の炎(多田茂治著)
髙島野十郎 里帰り展図録    髙島野十郎と同時代作家展図録
リアルのゆくえ展図録    資生堂ギャラリー75年史
日本経済新聞(2019年11月9日付け夕刊)掲載記事