粋狂老人のアートコラム
         水郷周辺の牛の放牧風景であろうか・・・・・栗原喜依子
           磨かれたような画面に思わず心の高ぶりを感じ、・・・

 
 最初に絵を目にしたとき、何を描いているのかわからなかった。絵に近づいてみると、離れた場所から牧場(?)を描いたようだ。牧場の敷地周辺には大きな湖があり、対岸には数頭の牛が小さく描かれ、その奥には横一列に樹が配置され、右端には白い人家も見える。画面半分を空が占め、雲の表現と地上の表現が見る者に雄大さを感じさせる相乗効果があるようだ。キャンバスのサイズは10号なのに、描かれた牛や樹は皆小さく、絵から離れると老人には何を描いているのか分かりにくい。それでいて、一見神経質そうな印象も受ける。それは夫々の対象物を線描画のように描いていることが関係しているようだ。線描で思い出すのは、「ベルナール・ビュッフェ」の鋭い描線と暗色の表現を思いだし、一方、国内では「笠井誠一」の静物画に見られる穏やかな線によるモチーフの縁取りが頭に浮かんでくる。この作者の線描は前者のいずれでもない描き方のようである。最初に感じたのは、作者は若しかして女流画家ではと直感した。それは御覧の通り、細く描かれた線には鋭さも感じる反面、どこか少し優しさがあるように思える。勿論、磨かれたようなキャンバス画面に驚き、一瞬、コーティングされているのではと思ったほどである。

         
         牧場の見える風景(仮題)   33.0×52.5㎝


 私の記憶にある栗原姓の画家は、栗原信、栗原忠二、栗原亮がいるが、三名とも1970年以前に亡くなっている。現役では唯一栗原一郎が思い浮かぶが、忘れてならない女流画家がいた。それは「栗原喜依子(1935~2009年)」である。
 栗原に関しては、作品を理解するうえで興味深い情報がある。それは安井収蔵氏(注)によるアトリエ訪問記(?)の中で次のようなことを書いている。一部を引用させてもらうと、『栗原は裸婦の描ける、たったひとりの女流洋画家といっても言い過ぎではない。だが、裸婦を描く前の下塗り、下地つくりにこそ、もっともこの画家は神経をつかい、時間をかける。この下地つくりは、1966年、はじめてのパリ留学のさい研究したものだが、仕上げるためには、ほぼ四ヶ月かかる。何回も何回も塗り重ね、おしまいに磨きをかけて、完成する。その仕事は、あたかも漆職人にも似ている。「いちばん、気くばりするのは、ホコリで、窓を閉め切り、歩くのも、しのび足です。」と語る。一日に四十~五十本の筆を使うというが、すべて、その場できれいに洗う。また、パレットは使わない。すべてが、白磁の小皿。清潔な道具だてこそ<白磁のポエジー>の身上だろう。』と書いていた。
 私はこれまで、大手デパート美術画廊などで、何度も作品を目にする機会があった。当時の私は、「いつもの女性像を描いているな」程度に見ていた自分を反省したい思いである。まさか画家が、これほどまでに下地つくりに拘っていたとは、驚きと同時にさすがと思わざるを得ない。
 安井氏のアトリエ探訪記には、さらに栗原を理解するうえで重要な情報が複数見つかった。その一つは、「渡仏しパリを訪れてから白の下塗りの研究がはじまり、今日のような象牙のように堅牢で、つややかな下地を作り上げることになった。時間の経過とともに、ひび割れや剥落はないなど、もっとも関心をもった点である。こういった下地には面相筆による表現以外に方法がないこともわかった。」とあり、手元の風景画の技法は面相筆により描かれたことを理解した。その二つは、「栗原の尊敬する画家、村上華岳は、観音の清浄さという立場から裸婦をひたむきに探究したように、この画家も、官能としての女ではなく、人間の性そのものを超越した至純の美の象徴として裸婦をとらえようとしている。女性美の真理を追いつづけているのである。」と書いていた。これらが私にとって重要と感じた内容である。確かに安井氏が書いているように、私は華岳の観音像(素描)を二度ほど見る機会があったが、当時の私にも作品の静謐感や細部にわたる線描は、鑑賞者を釘付けにする力があったと記憶している。因みに、華岳は観音像の完成までに、下絵を何枚も描いていたと作品説明にあったような記憶がある。
 ところで、私がこれまで目にした栗原の作品は裸婦や少女像に限られ、風景画については見る機会がなかった。ところが裸婦を手掛ける前は、風景画家として知られていた。スペインの街、地元茨城の風景など、淡い着彩の作品が中心であったようだ。手元の作品も制作年や画風からみて、まさに当時の茨城の水郷風景を描いたと推測している。栗原の略歴を見ると、1970年には銀座松屋で個展を開催しており、制作年が同じことから個展出品作の可能性を期待している。
 私は迂闊にも栗原が亡くなっていたことを知らなかった。今回、略歴を調べ始めて、初めて分かった。やはり画家を理解するうえでは、略歴は必要と考えているので紹介することにした。栗原は、「1935年茨城県行方郡玉造町生まれ。54年茨城県立石岡第二高等学校卒業。56年第41回二科展に初入選。58年女子美術大学芸術学部洋画家卒業,NHK(美術部)入社。62年銀座松村画廊で初個展。63年銀座サエグサ画廊で個展、以後、65年も開催。66年渡仏。67年ル・サロンに出品し、銀賞を受賞。サロン・ドートンヌに出品。第52回二科展で特選となる。70年銀座松屋で個展。以後71,73、75、76、78、79、81、83、86、92年開催(確認分のみ)。72年銀座フジヰ画廊で個展。73年第16回安井賞展に出品。74年第59回二科展に出品し会員に推挙される。以後、毎年出品。78年第2回具象現代展に出品、第1回現代の裸婦展招待出品のため、裸婦を手掛ける。それぞれ以後毎年出品。79年太陽展に招待出品。第10回日動展に出品。80年第19回国際形象展に招待出品。以後、毎年出品。第1回女流画家展出品。81年第1回現代の女流画家展、同第2回展出品。82年日動サロンで個展。82年パノラマ82-日本画壇の全貌展に出品。以後83年にも出品。83年大沢昌助と二人展(日本橋優美画廊)。84年五都展出品、渡欧。85年五都展出品。86年、92年月刊美術に紹介される。80年以降、名古屋松坂屋、京都蔵丘祠画廊、銀座むつみ画廊、札幌三越、神戸ポートピアホテル三越画廊、大阪ロイヤルホテル三越画廊、水戸京成百貨店などで個展開催。2000年12月24日付読売新聞の「絵は風景シリーズ(編集委員芥川喜好氏担当)」に≪平和への願い>が取り上げられる。2009年没、享年74歳」とある。しかしながら、栗原の1990年代以降の活動状況は、一部を除き資料不足で把握できていないことをお断りしておく。
 因みに画集「裸婦」には栗原自身が「絵の周辺」と題して談話が掲載されている。私はその中の「下塗り、マチエール」のテーマ内容に興味が湧いた。一部引用すると「フランスへ留学するまでは、下塗りというものをそれほど大事に考えてはいませんでした。ですから、各地の美術館で、ルネッサンスの古い絵から、レンプラント、ゴヤ、印象派までを含めて私が一番感心したのは、艶のあるそのマチエール(絵肌)の美しさでした。しかも、それが描かれてから何百年たってもこれほどすばらしく、美しさを保ちつづけられるということに驚きました。一体どのように下塗りがされているのだろうかと、私が求めていた質感の把握といった表現の基礎になる下塗りという技術的な問題の重要性を痛感しました。それでマチエールや下塗りの研究に没頭したのです。以下省略」とあり、栗原の下塗りのきっかけとなった理由が理解できた思いである。
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 今回の出合も、作者不詳で巷を流れていた作品を目にした瞬間、キラリと光るものを直感し入手したが、調査の結果、栗原の初期作とわかりほっとしている。
 一方、私にもこれまでのように自由に絵画蒐集ができにくい状況となりつつある。それは収蔵作品の量が増え過ぎて、収蔵室から廊下へ食み出し、家族からブーイングが出始めている。この問題の解決方法はいまのところ見つかっていない。さて、どうしたものかと思い悩む日々を送っている。

注、安井収蔵(1926~2017年)毎日新聞美術担当記者を経て、山形県酒田市美術館長、茨城県筑西市しもだて美術館長、日動画廊顧問などを歴任した、2017年5月3日歿、享年90歳。
<参考資料>
二科70年史  安井賞展40年史    月刊美術NO.129号
月刊美術NO.200号     裸婦 栗原喜依子(学習研究社)