粋狂老人のアートコラム
       水郷周辺の牛「雉子も鳴かずば撃たれまい」のことわざを思いだす・・・・北上聖牛
       変わった名前の画家を記憶していた・・・

  小春日和の昼下がり、家族団欒のなかで、雉子の鳴き声が話題になった。振り返れば、今の住まいに越してきたころ、自宅の裏手は林と畑であった。都心から30分程度の距離にあるのに開発されずに自然が残されていた。今では開発が進み、昔の面影を見つけることが難しい町並みが目の前に広がっている。因みに、新居での生活が始まった頃、裏手の林の方角から、けたたましい鳴き声が聞こえてきた。最初は何の音(鳴き声)か分からなかったが、隣人の話しから雉子の鳴き声と分かった。その音を文字で表せば、「ケーン」と甲高い声で鳴いているように聞こえた。その後、猫の額ほどの土地を借り野菜など栽培していると、至近距離で雉子の姿を目にするようになった。しかし、開発が進むにつれて、いつの間にか雉子の姿も見られず、鳴き声も聞くことがなくなり、今頃になって、しっかり観察しておけばよかったと悔やんでいる。
 家族団欒のなかで、もう一つ話題になったのは、「雉子も鳴かずば撃たれまい(注)」のことわざである。私は、ことわざ自体は知っていたが、いつ頃、どこで目にしたのか記憶が定かでない。それは学生時代なのか、それとも小説の中か、あるいは新聞であったのかまったく思いだせない。私の越して来た場所が、たまたま雉子の生息地で、初めて鳴き声を生で聞くことになり、ことわざの意味を理解する機会に恵まれた。因みに、ことわざ辞典によると、「雉子も鳴かなかったならば居所を気付かれず、射たれることもなかったろうに、ということから、無用の発言をしたばかりに禍を招くことのたとえ。」と解説している。余談であるが、雉子に関することわざには、「雉子鳴けば地震あり」「雉子の隠れ」「雉子を食えば三年の古疵も出る」などが載っている。
                    
             雉子の図 201.8×39㎝

一方、焼物の世界では、野々村仁清作の「<色絵 雉子香炉>国宝、石川県美術館蔵」などが思い出され、他にも一時のめり込んだ鍔の世界でも、石黒政明作の「<雉子の図>赤銅魚子地 高彫色絵 金覆輪」を思いだす。これらのことからも、人間と雉子との関わりは昔からあったことを知ることが出来る。
 私の細やかな所蔵品には、数は少ないが掛け軸も含まれる。その中に「北上聖牛」作の花鳥画がある。図柄は振り返った雉子を背の高いつつじの木と熊笹の中に配置した構図である。熊笹は葉が冬に緑が枯れて白く隈取りをしたように描かれており、制作地は不明ながら、時期的には五月頃と推測している。つつじは二分咲き程度で蕾が目立つが、背丈はあり、一般家庭の庭で鑑賞している種類とは異なるようだ。肝心の雉子は瞳の表現を小さい黒い点としたためか眼光に鋭さは見られない。しかし、全身を覆う羽毛は、光線によって黒色にも見えるなどの特長を微妙にとらえ、顔の周囲に肉だれは見られないが真っ赤に描かれ、首までは群青色、腹部は群青色から緑色などに変化する羽毛を丁寧に描写している。さらに仔細にみると、名前は分からないが、青色の小さな花や黄色の花も描かれている。日本人は余白に拘りがあるようで、この絵も上部に十分な余白を持たせ、一方、下部は込み入った構図のため、全体としてバランスが取れた構図に思える。
 ところで、何故この絵を買い求めたかは、私自身にとってそれなりの理由がある。その一つ目は、自宅周辺から雉子の姿が消えたため、せめて雉子の絵を飾り、気分を紛らわそうと考えたこと。二つ目は、1916年第10回文展に出品された村上華岳の<阿弥陀>(特選受賞)を調べていた時、他の入選者の中に北上聖牛の<はなれ國の初夏(六曲一隻)>を見付け、変わった画家の名前と砂浜で長い竿に漁網を干す男を描いた作品が妙に気になり記憶していたことである。それから30年も経過したころ、偶然に聖牛の雉子の絵と出合った。私にとっても、これだけの長い時を経て、聖牛の作品に出合えることなど想像だにしなかった。私は今回も不思議な体験をしてしまった。
 今回、聖牛の略歴を調べて驚いたことがある。聖牛は12歳の若さで左足を失っていた。五体満足に生れた少年が、突然に左足を失うとはどんな思いであったろうか、察するに余りある。その様な状況でもめげずに画家を目指し、最後まで全うした強靭な精神力には畏敬の念さえ覚える。ここまで触れたら略歴を紹介しないことには始まらないであろう。
 早速、紹介すると、「聖牛は、1891年5月11日函館市青柳町に生れる。本名、利一郎、号:北山、池龍、利一。97年住吉尋常高等小学校入学。1903年左足を失う。07年日本画家を志し京都に出る。京都では、京都烏丸で薬局を営む上羽氏宅で3年ほど着物の染色・紋・上絵をする。その後、北山峻山に師事、1年ほど、日本画の絵の具扱い、古典派の美人画など学ぶ。13年京都画壇の重鎮、竹内栖鳳に入門。15年、処女作<青葉の陰>制作。16年第10回文展に<はなれ國の初夏>が初入選、この頃、函館に帰省、当時、聖牛を支援していたのは、函館の豪商、末富孝次郎であり、他にも函館の表具師、畑団次郎も応援していた。以後、11回文展入選。19年第1回帝展入選、以後、第2回,第3回、第8回~11回、第15回展に入選。14年、京都で研究団体「冬心会」を設立。25年第1回道展には特別会員として「残月」を出品。36年昭和十一年文展監査展に入選。戦後は個展を中心に発表した。70歳前後から、高血圧と糖尿病を患ったが、筆を休めることなく描き続け、69年12月30日歿、享年78歳。」とある。聖牛は「写生に基づいた花鳥画を得意とし、画風は初期のころの写実的な表現から次第に大和絵風に傾き、晩年は洋画風に移っている。」と資料に載っていることから、手元の雉子の絵は初期の頃の作品と思われる。
 最近、手元の資料を探したところ、2019年11月27日付け日本経済新聞(朝刊)に土岐美由紀氏(北海道立三岸好太郎美術館副館長)が、北海道の日本画十選(1)に北上聖牛作<はなれ國の初夏>を取り上げていた。参考までに土岐氏の解説文を一部紹介したい。『初夏の陽射しに照らされた砂浜。その主役は画面を貫く長い竿にかかった網だ。無精髭の漁師が干す漁網が重量感たっぷりに孤を描いて連なり、たわむ網目一つ一つに潮風が吹き抜ける。飛び交う赤トンボの羽音や網からたちのぼる潮の香りまで感じられよう。―途中省略―。函館生まれの北上聖牛は1913年に22歳で京都画壇の重鎮、竹内栖鳳に入門。その3年後、本作で念願の文展初入選を果たす。主題は故郷の浜。函館は江戸時代から北前船の交易港としても栄え、大正期には道内随一の人口を誇った港町だった。鏑木清方が「描写が正確で男性的な可なり纏まった作である。一歩にして画品を欠こうとしているが印象に残る作品」と評したとおり、洗練された伝統意匠にもみられる網干が、網の結び目まで捉えたリアルな描写により、泥臭く逞しい生の営みを現出させている。』と解説している。私はこの記事をみて、先人も聖牛を評価していたことが分かり、少し誇らしい気分になった。因みに土岐氏が10回シリーズに選んだ主な作家は、聖牛の他に本間莞彩、横山操、岩橋英遠、片岡球子、東山魁夷、後藤純男などである。少なくとも門外漢の私がみても錚々たる顔ぶれである。私は10人の中に聖牛を選んだ土岐氏の眼力に拍手を送りたい。
 一方、聖牛の画業は現状において埋没しているようであるが、私は再評価に値する画家と考えている。そのためには、生地の北海道立函館美術館や作画の拠点となった京都市京セラ美術館で巡回展などの企画が実現することを期待する一人である。再評価の為には、誰かが黒子役を果たすことが必要と考えているし、現にこれまでも、黒子役の働きで成功した事例が数多くあることを忘れてはなるまい。
 
 注、国語辞典(集英社)、岩波国語辞典(岩波書店)では「雉子も鳴かずば打たれまい」と表記。新明解古語辞典(金田一京助監修・三省堂)では「雉子も鳴かずば討たれまい」と表記されているが、今回は、ことわざ辞典を採用させてもらった。

<参考資料>
ことわざ辞典(臼田甚五郎 監修 日東書院)  日展史
陶磁体系 23 仁清(平凡社)