粋狂老人のアートコラム
       木曽郡三岳村に疎開した仙人のような画家・・・・清水敦次郎 
        現場制作を重視する画家作品を発掘か・・・・・

  久し振りに胸の鼓動が高鳴るような一枚の風景画を見つけた。絵は無銘であるが、出来栄えが素晴らしく、そのうえ嬉しいことに価格が手頃である。作者云々は二の次で即座に買い求めた。作品を買い求める際の心のうちは、いつも複雑に入り混じっているが、まず、作品を気に入ったかどうかが重要ポイントになる。勿論、今回も一瞬にして、過去にこの種の絵を描く画家に巡り合ったことがあるか等々が記憶の海を駆け巡る。その一瞬の記憶検索から対象者がヒットしたことは、過去に何度も体験済みである。今回も私の注目している画家のなかに思い当たる人物が一人だけ見つかった。
       
         木曽の巌(仮題)   46.5×60.0㎝
 
 画家の事はさておき、作品を見ることにしよう。絵は源流に近い渓流を描いたと思われる。構図は水量の少ない水の流れが、苔むした大小様々な岩の隙間を縫うような情景が目に飛び込んでくる。画面下部には形の異なる大きな岩が左右に配置され、岩の存在感か迫って来た。私が驚いたのは、苔むした岩の表情や陰影の巧みさ、透けて見える浅い川底の心憎い描写である。渓流の両岸には、杉や松らしき樹木が、なだらかな斜面上部に向かって岩場に自生している状況を巧みに描写し、まるで深い森に迷い込んだような雰囲気さえ感じる。さらに追い打ちをかけるように、樹木の根元周辺の木漏れ日がさしている下草や岩も、隅々まで手を抜くことをしない細密描写である。私は画面を見て、直ぐにこの画家は遠近法を熟知していることに気付いた。それは四方から交わる周辺は、陽がさしていると思われ、明るく表現し、鑑賞者の視線が自然に交差する場所に誘導されることを意識しているようだ。因みに、私が絵を買い求める決断をしたのは、目の前の景色を画家と一緒に見ているような錯覚(寧ろ臨場感かも?)を起こしたことが決め手になったと記憶している。
一方、私は画家が拘る作品のモチーフで注意すべきポイントを見つけた。それは、手元の絵に関して言えば、両岸の杉の枯れ枝が、それぞれ対岸近くまで伸びている構図にしていることである。私は研究不足で、作者の意図するところは理解できていないが、少なくとも作者特定のヒントになると考えている。
 この辺で私が辿り着いた画家を紹介すると、その画家は「清水敦次郎」である。私の調査では、1959年作≪渓泉≫の木の枝の描き方が、「渓谷の左右から伸びていること」が手元作品と同じ表現であること。他にも、1949年作≪渓谷≫も同じように木の枝を対岸に向かって伸びた情景を描く敦次郎の拘りがみられること。さらに、1955年作≪座禅石(苔寺)≫の樹木の幹の表現は、まさに手元作品と同じ人物が描いたと推測できる描写と雰囲気を感じたことが決め手となった。
 因みに、敦次郎を調べるなかで「長野県美術全集7」に出合った。全集には30人の画家が取り上げられており、その中に敦次郎も含まれていた。作家解説文を開くと、長野県木曽福島町生まれの亀子誠氏(1935~、画家)が敦次郎を担当していた。解説文の一部を紹介すると「昭和20年、太平洋戦争で空襲を受けてアトリエを焼かれ、長野県木曽郡三岳村へ疎開し、以後、この地で制作する。」―途中省略―「戦後しばらくして一時東京に戻り、女学校の美術教師(注)をしていたが、再び三岳村のアトリエに戻り制作に没頭する。昭和21年の第二回日展で≪水車への流れ>が特選となり、政府買上げとなっている。この頃から渓谷風景を多く描くようになった。昭和30年代中頃だったと思うが、三岳村御嶽登山口一合目の場所にアトリエを新築した。それは御嶽山を正面から見る絶景の場所である。おそらく村人の暖かな援助のおかげと思われるが、今日もこのアトリエは現存し、子供さんたちが毎年夏をここで過ごしているという。このアトリエ新築後、ここから見た御嶽山の作品が多くなっている。アトリエの近くには美しい渓谷があり、現場に出かけて描いていた。腰には樵が使う腰皮をさげ、檜笠をかぶり、仙人を想わせるいでたちである。静かな山深い小さな沢で、せせらぎを聞きながら描くことが好きなようだった。」と解説しており、手元の作品を見ていると、敦次郎の現場制作を重視した姿勢が理解出来そうである。
 忘れないうちに、これまでに調べた敦次郎の略歴を紹介することにしたい。敦次郎は『1894年8月15日新潟県三条市上町(現;本町)の綿屋「錦喜」商店の次男に生れる。1915年上京し、太平洋画会研究所に学ぶ。18年第12回文展に≪寺島の工場>初入選、この作品は、日魯漁業社長堤清六氏の目にとまり、850円で堤氏に買い取られる。19年≪老人と髑髏>(平園賢一氏蔵)制作。20年第2回帝展に入選。27年第8回帝展に入選。33年第29回太平洋画会展入選。以後、31回、34~37回展入選。35年太平洋画会会員となる。40年紀元二千六百年奉祝展入選。41年三井コレクションの嘱託となる。43年第6回新文展入選。44年東洋高等女学校で教鞭をとる、資生堂で個展開催。45年東京のアトリエが空襲で焼け、木曽郡三岳村に疎開、この地で制作。46年春、第1回日展に入選。同年秋、第2回日展で<水車の流れ>が特選受賞、政府買上げとなる。47年太平洋画会を退会。第3回日展に招待出品。同年示現会創立会員。48年第4回日展入選。49年第5回日展に依嘱出品、以後、第12回展まで連続出品。50年白土会同人となる。第3回示現会展に出品、以後、4回、12回、14回、15回展に出品。55年銀座、日動画廊で個展開催。58年第1回新日展に出品。59年第2回新日展に出品依嘱。60年第3回新日展に出品依嘱。62年第5回新日展に出品依嘱。同年7月7日癌のため東京虎ノ門病院で没、享年67歳。63年第16回示現会展に、<燈影>遺作出品し朝日新聞社賞。2002年「三条市歴史民俗産業資料館で、清水敦次郎、浅野正俊、源川雪の三人」展開催。15年「わの会の眼」展に<老人と髑髏>展示(於;平塚市美術館)。17年「リアルのゆくえ」展に<老人と髑髏>展示(於;平塚市美術館)。』とあるが、白土会展については、資料不足で調査が難航している。
 最後に素人推理を披露したい。私は今回、敦次郎の略歴や作品を調べる中で、私なりに辿り着いた仮説がある。勿論、これは仮定の話であるが、手元作品は、現在、所在不明の昭和21年春、第1回日展入選作の≪木曽の巌≫ではと考えている。敦次郎は戦後の数年に多くの渓谷作品を手掛けている。理由は疎開先のアトリエから近場に渓谷があるため、少しずつ場所を変えて制作することは誰しも考えることである。そのうえで、推理が単純かも知れないが、手元の作品は、沢山の岩を画面に配置した構図である点を考慮し、画題に相応しいと考えてみた。私の素人推理は無謀であろうか?因みに、私の知り得た情報では、2002年開催の清水敦次郎ほか三人展には27点展示されたが、≪木曽の巌≫は含まれていなかった。それらの事実も参考に所在不明と推測してみた。他にも、61年第14回示現会展出品作≪岩を這う≫も画題から推測して候補作の一つと考えている。
 話題を変えて、敦次郎の実力を世間が認めたエピソードをご披露しよう。敦次郎が55年に日動画廊で個展を開催したときのことである。敦次郎の地元紙である三条新聞(昭和31年4月5日付け)によれば、「この個展は、日動画廊空前の入場者で画壇に大反響を呼び起こしたのは、氏の日本人としての感情が画面に適切に表現されて大衆の公平なる共鳴を誘ったからに他ならない。」旨の記事が掲載さるなど敦次郎に相応しい評価がされていたことが分かる。しかしながら2002年の企画展以来、現在まで回顧展等の開催もなく、敦次郎の存在が世間から忘れられてしまうのではないかと一人危惧している。
 私は他にも気になっていることがある。それは、画家が作品に銘を入れるか入れないかの線引きをどのように判断していたのか・・・・という点である。事実、敦次郎の現存作品には、無名の物も存在している。仮に無名の作品の場合、所蔵者が亡くなり、遺族が絵に関心がなければ、無名の状態で処分されてしまうことが目に見えている。その様なことを果たして画家は望んでいたのであろうか?この謎は未だに解き明かすことができないでいる。

 注、亀子誠氏の解説文では、「戦後しばらくして上京、女学校の美術教師をしていたが」と解説しているが、私は略歴の紹介で、東京文化財研究所の情報を使用し、「44年東洋高等女学校で教鞭をとる。」とした経緯がる。
 注、掲載写真は古いデジカメで撮影のためか、解像力が悪く、全体にぼやけた状態に写り、実物の緻密さや切れ味が相まった迫真の画風が今一つ感じられないことを付け加えておきます。

<参考資料>
日展史   長野県美術全集 7    資生堂ギャラリー75年史
みづゑ411号    太平洋美術会百年史   リアルのゆくえ展図録
日動画廊五十年史  三条市歴史民俗産業資料館提供資料