粋狂老人のアートコラム
      作者不詳の木彫(瓦と鳩)に記憶のかけらが・・・・川上邦世
        作者は39歳で歿した夭折の彫刻家であった

 
 今回はのっけから回り道を選んでしまったが、暫しの間お付き合いの程・・・・・。私は東海道新幹線が新大阪まで開通し、その後、岡山まで延伸開通したころ社命で岡山に赴任していた。休日には暇を持て余し、市内を目的もなく散策するのが日課のように過ごしていたことが思い出される。その日もいつもと違うコースで散策していたとき、偶然に陶器店が目に入った。店先のショーウインドーに目をやると、何やら茶系の花入れらしき焼物が多数展示してあった。私にとって初めて見る焼物であり、軽い気持ちで店主に焼物の名前を聞いてみた。すると、岡山では有名な備前焼であることを教えてくれた。その後、五年近く市内に住んでいるうちに、徐々に備前焼の良さが分かり、いつしか虜になってしまった。備前焼を理解するうえで欠かせなかったのは、地元の美術館の名品鑑賞から、市内の画廊で開催される現役作家の個展巡り、さらには備前市まで足をのばした窯元巡りと充実した時間を過ごした。地道な努力の甲斐あって、備前焼の特長である、ゴマ焼、サンギリ、火襷、窯変、牡丹餅などの呼称もいつしかわかるようになった。そのうえ嬉しいことに自分好みの作家も数人みつかった。
 因みに、備前焼を理解するうえで参考にするため、各種の資料集めも並行して行った。例えば桂又三郎氏の「古備前珍品集」「古備前名物記と茶陶名品集」「続古備前珍品集」や人間国宝シリーズなど、他にも現役作家の展覧会図録など手元に集まってきた。
 今回、沢山の備前焼関係資料のなかから、思いだした記憶がある。それは「人間国宝シリーズ―9 金重陶陽(昭和52年8月30日第1刷発行、株式会社講談社発行)」である。作品集は55点の作品がカラー掲載された見応えのある内容で、私が特に注目したのは、陶陽の細工物である。その中で<緋襷瓦鳩香炉(昭和初期)>は池田藩閑谷学校の瓦を模したもので、写実的な作の鳩が瓦から今にも飛び立とうとしている瞬間を表現したものと思われる。瓦には池田家の家紋も入っているなど細部にこだわった逸品である。
 ところで、前置きが長くなったが、作者不詳であるが<瓦に鳩>の木彫作品に出合った。私は出合った瞬間に金重陶陽の作品を思いだした。形も陶陽作品に似ており、すぐに手元において楽しみたい衝動に駆られた。
 陶陽の<火襷瓦鳩香炉>の素晴らしさは説明するまでもないが、手元の<瓦と鳩(仮題)>も木彫の味わいをうまく利用し、丸みを帯びた頭部とは一線を画す鋭敏な羽根の彫りは見事である。一方、巴瓦には三つの「字(の)」を囲むように双魚が彫られ、家紋なのかどうかわかっていない。これは推測するに、武家の家紋というよりも外国(欧州?)のデザインを模した可能性が高そうである。因みに、肝心の作者については、巴瓦の側面に「邦世」の彫り銘が確認できた。私は即座に川上邦世作の可能性を直感し、その瞬間、身体の中を電流が流れるような感覚を覚えた。仮に邦世の作品となれば新発見である。彼は39歳で夭折しており、現在確認されている作品は僅か11点のみともいわれている。突然、12点目が目の前に現れたのであるから、木彫作品に興味を持つ者にとって、冷静でいられるはずがない。しかしながら、邦世の現存作品は木彫の人物像が大半である。果たして<瓦と鳩>のような作品を制作していたのであろうか、一方、「邦世」の銘を確認すると、刻む文字に迷いがなく、スムースな彫刻刀の運びが見て取れる刻み方に注目した。また、現存作品には「川上邦世作」「邦世作」「邦世」の銘が確認されているが、手元作品は、「邦世」としており、「澹堂」から「邦世」に変更した頃の作品の可能性が期待できる。

       
           瓦と鳩    21×37×16㎝

 勿論、埋没した彫刻家の贋作は、贋作者にとってうまみが無く、かつ、一世紀を超えたであろう木彫作品の自然な古色は、本物以外に出せないというのが私の下した判断である。
 この辺で邦世の略歴について紹介することにしたい。資料によると、1886年
東京生まれ。川上冬崖の孫にあたる。弟は画家の川上涼花(1887~1921年)である。竹中光重に彫刻を学ぶ。1906年東京美術学校彫刻科選科卒業、高村光雲に師事。フュウザン会に参加し、同年創刊の「奇蹟」に参加して挿絵や画論を発表。07年第1回文展に<破邪>澹堂名で出品。10年第4回文展に<静なる狂ひ>澹堂名で出品。12年(明治45年)日本美術協会に参加する。同年(大正元年)第1回フュウザン会展(於:読売新聞社)に彫刻作品出品。第4回日本彫刻会展に<オーバーコート>他出品。夏頃、生計を立てるために玩具店「呑気屋」を開く。13年第5回日本彫刻会展に<班姫>出品、以後、邦世名を使用。14年第8回文展に<シャベル>出品。第6回日本彫刻会展に<たばこ>出品。15年第9回文展に<恋>出品し褒状、第7回日本彫刻会展に<汗>他出品、第3回国民美術協会展に<梨花>他出品。16年再興第3回日本美術院に<春風駘蕩>が初入選し、院友に推挙される。17年第3回日本美術院試作展に<習作(トルソ)>出品、第5回国民美術協会展に<田吾作>他出品。18年第4回日本美術院試作展に<釈迦>を出品し、奨励賞を受賞、再興第5回院展に<成吉思汗>を出品。19年第5回試作展に<閻魔>出品、第6回再興院展に<日本武尊>出品。20年再興第7回院展に<焼酎>出品。21年再興第8回院展に<孔子像>他出品。秋頃目黒から石神井に転居。22年第4回帝展に<不動明王>出品。24年頃、東京府大崎町大崎582に住む。25年第67回日本美術協会展に絶作<狐>出品。同年6月2日歿、享年39歳。」とある。没後は2010年に『岡倉天心と日本彫刻会―日本木彫の「伝統」と「革新」展』に作品展示(於:小平市平櫛田中彫刻美術館)、同年「中 平四郎―師―川上邦世とともに」展(於:群馬県立館林美術館)に作品展示されたことが分かっている。
 話が横道にそれるが、岩本昭著「わたし流美術館」を以前に読んで気になっていたことがある。それは「幻想の西と東 川上邦世と堀江尚志の彫刻」の見出しで書かれた中で見つけた。該当箇所を一部紹介すると、『邦世はビゴーの大変なファンで、その正妻おます(マス)の死にも立ち会って、デスマスクをとったのも邦世ではないかと想像されるという。そのデスマスクには死んだ女の髪の毛もついていたともいう。』と記しており意外な関係に驚いた。
一方、「ビゴー日本素描集」によると、1899年6月に帰国(注)に先立ちマスとの離婚手続きを横浜の領事館で済ませ、6月14日には帰国の途についたとある。私の気になる症候群はマスが亡くなった時期まで及びそうなので、この辺で調査を止めることにした。
話しはまだ終わっていない、更に興味深い情報を提供しようと取り上げたのは、「川上邦世所蔵のビゴーの油彩画 洋画家川上冬崖の孫にあたる彫刻家・川上邦世は大正期に古道具屋でビゴーの油絵(日本女性を描いたもの)を発見し珍重して持っていた。ある時、懇意になった品川の洋食屋でコックをしている男にその絵を見せてあげると、その男は「奥様しばらくでした・・・・」と言って感慨無量の様子だった。その男は、以前ビゴー宅で料理人をしていたのだという。その絵のモデルの女性はビゴーの愛妾お蓮だという話もある。」と清水勲氏が「ビゴー日本素描集」に書いている。これらのことから邦世には、ビゴーファンとして作品の調査などをしていた可能性も否定できない。そのためビゴー作品を見極める眼を身に付け、不詳作品の中からビゴー作品を掘り出したのであろう。ところで、肝心の女性像の所在は今どうなっているのであろうか?気になるところである。

注、「明治の風刺画家・ビゴー」清水勲著(新潮選書、昭和53年3月20日発行)によると、ビゴーは「1900年(明治33年)3月パリ万国博覧会におもむく日本人一行の通訳として息子と共に船で帰国。」とあり、ビゴー素描集の表記より1年後が正しいと思われる。

<参考資料>
 美術80年史(森口多里著) わたし流美術館(岩本昭著)  日展史
 ビゴー日本素描集(清水勲編)   明治の風刺画家・ビゴー(清水勲著) 
わの会の眼  わの会の眼Ⅱ   日本美術院創立百周年記念展図録
中平四郎―師、川上邦世とともに展図録   日本美術院第八回展覧会図録