粋狂老人のアートコラム
      青木繁の画友、平島信の数少ない作品に出合う・・・・平島信
      大連での活躍が知られることもなく、埋もれた画家・・・

 
 私はいつの頃からか展覧会図録を入手すると、巻末の作家略歴を見ることを日課(?)にしてきた。それは予期せぬ事実が時折みつかることに私自身味を占めたためである。今回も青木繁展図録の略歴をみていて気付いた事実がある。一部を紹介すると、2003年開催の「青木繁と近代日本のロマンティシズム」展図録の青木繁関連年表の明治43年(1910)に「春、九州沖縄八県連合共進会で、のちに青木が頼ることになる平島信の<少女>が二等賞受賞(注1)」に興味を持った。平島信(ひらしま・まこと)は初めて目にする画家であり、どんな人物なのか知りたくなった。
 調査を開始して直ぐにお目当ての情報が見つかった。それは平成3年10月31日発行の「季誌 能古博物館だより(財団法人亀陽文庫発行)」である。その内容は、紙面トップに谷口治達氏による「多々羅義雄の最初の師 画家 平島信のこと」のテーマで紹介文が寄稿されていた。
 私は谷口氏の文章を読み終え、平島信のことを多くの絵画ファンに知って欲しい思いを強くした。同時にまだまだ世の中には、心ならずも埋没した画家が多数存在することをあらためて実感させられた。私はそれ以来、いつの日か平島信の作品に出合えることを心待ちにしていた。
         
             静物   41×32㎝
  
 そのような私の願いが通じたのか、偶然に平島の静物画を入手することができた。今回の作品との出合も言葉による表現は難しいが、何か不思議な縁を感じたことは確かである。
 作品は籠に盛られた果物を描いた油彩画である。私が最初に気付いたのは、籠の側面の構図でなく、持ち手側から籠を描いた画家の視点に興味を持った。さらに籠は持ち手側正面でなく、少し左右に位置をずらし、画面に変化を与えるなど工夫の跡が読み取れた。私がいままでに目にした籠に盛られた果物の絵は、大方が側面を描いていた。それはおそらく画家が描きやすいことを重視したためと思われる。平島が安易な構図を避け、敢えて難しい構図を採用したのには、それだけの技量を持ち合わせていたと考えている。また、盛られた果物は桃(?)と思われるが、判別が難しい。その理由は左斜め上方向からの光による持ち手の影を果物に表現したため、影の部分は暗く桃の形も判別しにくいようだ。他にも籠の下方に置かれた一個は種類が分からず解明が待たれる。
一方、絵が描かれたのは、二千六百二年(1942)とあり、太平洋戦争中であるが、作品からは世相を反映した緊迫感は感じられない。そのうえ全体として力強さとスピード感を感じる反面、暗い印象を受けるのは矢張り時代背景が影響しているのであろうか?略歴によると、この作品は平島が大連で活躍中の作品である。大連時代の作品はほとんどが行方不明と言われており、平島が帰国する際に持ち帰った数少ない貴重な作品の一部と思われる。推測するに、1956年に福岡玉屋七階ホールで開催された「平島信画伯喜寿記念洋画展」に出品された作品の可能性が高いと思っている。因みに、この静物画は、私の好みの写実画とは少しばかり異なるが、探していた平島の作品であると同時に、竹の持ち手や光の表現に興味が湧き買い求めた経緯がある。
 この辺で調査の中で知り得た情報の一部を紹介したい。西日本画壇史の中で、谷口鉄雄氏は、坂本繁二郎の項で、「青木と坂本との関係、ことに青木の晩年については、筑後出身の洋画家平島信(太平洋画会出品、昭和33年没、享年78歳)と青木との交友関係を知らなければならない。青木が佐賀から小城へ(年譜によれば42年7月)に移ったのは、当時小城中学の図画教師をしていた平島信をたよって行ったのであり、現在小城高校に所蔵されている青木の作品≪朝日>は平島の斡旋によって描いたものということである。」と書くなど興味深く読ませてもらった。
 他にも青木と平島信に関する興味深い情報がある。それは谷口治達氏が「季誌 能古博物館だより」に次のように書いている。「すなわち・・・・明治43年(1910)夏、二年前から築後、佐賀方面を放浪中の青木繁が佐賀県小城町に現れた。画友平島を頼ったのである。平島は当時小城中学(現小城高校)の美術教師だった。町を貫流する祇園川沿いの平島宅にも一時滞在した。平島宅にはその時二人の同居人がいた。一人が十六歳の多々羅少年(注2)で、平島の内弟子として絵を学び、上京しての美術学校進学に備えていた。―途中省略―もう一人は平島の姪で十八歳のツギである。なかなかの美人と伝え、それを裏付ける写真が一葉、平島家に残っている。たちまち青木は恋し、関東に愛人福田たねと一子幸彦がおりながら、ツギに求婚、平島も断わりきれぬ状況であった。ところが折から青木は肺結核が悪化、喀血し、福岡市の九大病院の診察を受け、東中洲にあった松浦病院に入院した。同年冬、ツギが見舞っており相愛関係だったと推量できる。しかし、翌四十四年三月、青木は二十九歳に満たぬ無念の人生を閉じて、ツギとの縁談も消滅してしまった。」と記しており、青木の恋多き人生の一端を垣間見た思いである。一方、画人としての違う一面を知ってしまうと、作品の味わい方にも影響を与えそうな予感がする。作品鑑賞の際、果たしてどのような世界が感じられるか楽しみである。
 参考までに平島の略歴を紹介することにしたい。資料によると、「1879年福岡県早良郡西新町282番地(現福岡市)生まれ。95年福岡県立尋常中学修猷館入学。99年中学修猷館を第四学年で退学し上京。同年小山正太郎の画塾不同舎に入門。1903年不同舎を止め、茨城県立水海道中学校奉職。同年第2回太平洋画会展に水彩画出品。04年第3回太平洋画会展に出品。05年水海道中学校依頼退職。06年門司市高等小学校代用教員。07年福岡医科大学生理学教室奉職。07年佐賀県立小城中学校助教心得。10年福岡市で開催された九州沖縄八県連合共進会絵画展で最高賞。同年、青木繁が佐賀県小城町の画友平島宅を訪ねる。11年小城中学校教論心得。22年同校依頼退職し福岡市に帰る。大陸渡航を図る。中国を巡遊する。24年家族と共に大連に移住。画塾大連洋画研究所を設立。南満工業専門学校などで教鞭をとり、関東州庁の嘱託として教科書つくりにも携わった。専ら満州国展に出品。47年福岡に帰国(早良郡金武村金武(現西区)に居住)。故国では無名同然で、戦後の厳しい生活環境の中で、再出発、絵筆を取り直すことになった。56年平島信画伯喜寿記念洋画展(於:福岡玉屋)開催。発起人は小西春雄(福岡市長)、牧川鷹之祐(九州大学教授)、田中丸善八(玉屋社長)らがなり、坂本繁二郎と小杉放菴が案内状に推薦文を書いた。57年4月16日歿、享年78歳」とある。
 最後に平島の個展案内状に坂本が書いた推薦文の一部を紹介したい。坂本は「画壇的表面には殆ど無関係に黙々画道精進・・・・生涯の沈黙を破って今回其作品を発表さるると云う・・・・氏の画面は素直・純真・自然・必然、そう云うよさが、見る者を飽かず引き付け、其喜びをしみ透るように与えるであろう・・・・」と記している。坂本の画家としての冷静な眼と友人に対する深い思いを感じたのは私だけであろうか?
 注1、谷口治達氏の小論では、「明治43年春、福岡市で開かれた九州沖縄八県連合共進会の絵画部門で最高賞を獲得しているとある。」いずれが正しいのか確認できていない。
 注2、多々羅少年とは、後の多々羅義雄(1894~1966年)ことである。明治27年9月18日福岡県生まれ。青木繁、満谷国四郎に師事。太平洋画会展に出品。大正2年第7回文展に初入選。大正7年第12回文展で<上総の海>で特選。大正8年第1回帝展無鑑査。昭和4年太平洋美術学校教授。昭和25年太平洋画会代表。27年光陽会を創立、会長となる。昭和43年12月10日歿、享年74歳。

<参考資料>
もう一つの明治美術展図録  季誌能古博物館だより(財団法人亀陽文庫発行)
西日本画壇史(谷口鉄雄著)  太平洋美術会百年史  能古博物館提供資料
大分の近代美術(後藤龍二著)  日展史