粋狂老人のアートコラム
       「鳥と枯葉」の作品に記憶の画家を思いだす・・・・五百住乙人
        作品に出合った人たちを魅了する画力は天性のものか・・・・

 
 私は30年以上前に五百住乙人の≪母と子≫という作品を目にしていた。その場所は何処であったか全く憶えていない。しかし、作品の素晴らしさだけは、私の記憶に残っていた。確か作品の構図は、子が座り、母が向き合って屈んでいる姿であったと記憶している。作品からは、温かみのある穏やかな絵肌が感じられ、母親の我が子を慈しむ雰囲気が見事に表現されていた。
 作品(母と子)との出合は、私が絵の蒐集を始める前のことで、蒐集を始めてからも画家の作品を目にする機会が徐々に増えていった。しかしながら、作品を目にするたびに価格が上がっていき、ますます私の手が届かない存在になってしまった。負け惜しみを言うつもりはないが、それでも一つだけ収穫できたことがある。それは、出会いの都度、作品の前を通過するのではなく、立ち止まり折角の機会を逃さず、じっくり作品を見てきたことである。とくに絵肌、モチーフ、画家の好む色彩、小さな画風の変化に注目してきたつもりである。お陰で今までの努力の積み重ねの成果(?)で離れた位置からでも作者を言い当てられるまでになった。
 今回の出合も作者不詳状態であったが、一目で「五百住乙人」の作品であると確信した。モチーフは五百住が好む<鳥(鳩?)>である。サインは改名前の本名を使用し、裏面に貼ってある日本橋画廊のシールには、「五百住乙」と作者名が書いてある。手元の資料によると、五百住の日本橋画廊での個展は1970年、72年、73年、78年の四回しかなく、おそらく、いずれかの日本橋画廊での個展出品作と思われる。改名(乙から乙人へ)の時期については未確認であるが、1979年「土井俊泰と二人」展までは「乙」の使用が確認でき、推測するに1980年代初めの可能性が高いと思っている。
         
             鳥と枯葉  41×32㎝  

 肝心の作品は、公園に設置されている高坏型の白い給水台(?)に枯葉を右足で掴み左後方に顔を向け止まっている鳥を描いた構図である。この作品の特長は、中央の鳥と給水台の周りを薄い青緑色で表現し、外回りを少し赤みがかった茶系の色で抽象画のように表現することで、鳥や白い給水台が画面から自然に浮き出てくるような印象を受ける。そのうえで、五百住の独壇場であるなんとも言えない穏やかな雰囲気を醸し出しているようだ。この雰囲気の作品を前にすると、絵好きの人間でなくとも一枚欲しくなってしまいそうである。作品には何とも不思議な魅力が宿り、いつの間にか引き込まれてしまう。

 五百住について調べている中で、1989年月刊美術6月号に「確かな造形力と温かなマチエール」の見出しで五百住乙人を取り上げていた。その中に五百住作品を理解するうえで参考になると思える箇所を一部紹介したい。それは「以前、美術評論家の安井収蔵氏が五百住さんの新作展に寄せて次のように書いた。“日本画のように深見のある発色は、豊かな抒情をおだやかに伝えてくる。田園牧歌的であると同時に、メルヘンにも似た郷愁を感じさせる。それが、近作においては、とどまるところがなく幽玄の空間に到達しようとしているのである。あえて言えば凄味にも似た迫力が加わってきたのである。”(1984年5月五百住乙人油絵展図録より)」とあり、安井氏の評価も五百住作品鑑賞の参考にしてみようと考えている。

 因みに、私は立軌会会員のK画伯と細やか交流があり、展覧会の都度、招待状をいただいている。そのため立軌展には欠かさず足を運ぶことにしている。立軌会同人にはK画伯や五百住を含む五人ほどの注目作家がおり、それぞれの作家の作風の定点観察を楽しんでいる。私はこれまで企画展と団体展の楽しみ方(鑑賞の仕方かも)は、それぞれに区別した目的で鑑賞するスタイルを取り続けてきた。とくに団体展を例にとれば、作家が翌年にはどのような作品を出品するのか、勝手に想像したりしてこれまで楽しんできた。私の注目する五人のうち、一人については過去にモチーフを言い当てたことがあり、この楽しみ方は、当面続けるつもりである。また、仮に私の推理が外れても、作者の思いを感じ取ったりと、楽しみ方は広がるばかりである。

 余談であるが、私が五百住に注目する以前に気になった画家が一人いた。それは梅野隆氏の藝林で目にした本荘赳(1906~1993年)である。本荘の画風が少なからず五百住の画風に似ていると感じたのは私だけであろうか?しかも偶然かも知れないが、本荘も五百住と同じ1970年に日本橋画廊で個展を開催していた。これらの事実を知ると、二人に面識があったかどうかわからないが、不思議な縁を感じてしまう。

 最後に五百住の略歴を紹介したい。資料によると、「1925年東京小石川生まれ。本名は乙、のち乙人に改名。51年第5回毎日新聞連合展新制作部入選、以後新制作展出品。56年立軌会同人、第8回立軌展出品、以後立軌展出品。58年第1回安井賞候補新人展出品、以後3回、5回展出品。抽象作家展出品。68年資生堂ギャラリー個展。69年現代美術中堅作家20人展出品。70年日本橋画廊個展、以後71年、72年、73年78年開催。日本洋画壇新鋭100人展。71年現代日本新人絵画展、第8回太陽展(日動画廊)、第2回日動展(日動画廊)。72年日本洋画新世代展、第1回推薦作家展(日動画廊)73年第3回新鋭選抜展。74年第1回七珠会展(ギャラリーミキモト)。76年川口精六、五百住乙二人展。79年第18回国際形象展。土井俊泰、五百住乙二人展。80年母子像展(日本橋三越)。82年大貫松三、山下大五郎、五百住乙人3人展。85年日本洋画商協同組合85年度展。88年現代洋画の展望展。89年日本の四季 日曜カラー版(読売新聞)に掲載。90年第1回日本洋画再考展、以後92年出品。93年洋画3人展(五百住乙人、入江観、土井俊泰)。98年第13回小山敬三美術賞。99年第1回日本秀作美術展、以後2000年、02年出品。05年秋山庄太郎・画家・一期一会展。07年現代日本画・洋画名家百画展。11年早稲田大学会津八一記念博物館に作品100号を寄贈。他にも三越各店、高島屋、松坂屋、松屋、天満屋などで個展他開催。画廊での個展、グループ展の開催。」が資料から確認できる。

 ところで、自称、出品作の推理屋(?)にとって、五百住の今年の立軌展出品作はどのような作品なのか今から楽しみである。展覧会場で本人に会い、話を聞きたい思いもあるが、高齢のためか、これまで本人を会場で見かけることはなかった。
今年こそは展覧会初日に出かけ、会場でお目にかかりたいと願っているが、果たしてどのような結末が待っているのやら・・・・。
 
<参考資料>
創立50周年記念立軌展図録  安井賞展40年史  月刊美術1989年6月号
資生堂ギャラリー75年史   五百住乙人展図録  本荘赳回顧展図録