粋狂老人のアートコラム
       明治期の旧姓の頃に描いた貴重な初期作を発掘・・・・永地秀太
       記憶装置から瞬時に有吉姓の画家を探し出す醍醐味とは・・・・

 
 最近、竹林の風景を描いた絵に出合い即購入を決めた。在銘にもかかわらず、作者不詳の取り扱いであったが、私は直ぐに一人の画家が心に浮かんだ。最初に絵を見た瞬間、明治期の作品特有の「におい」を直感し、作者の絞り込みに自信を深めていった。今回も長年、古い物故画家について、地道に取り組んできた積み重ねが功を奏したようで、久しぶりに高揚感に浸っている。

 作者と作品の説明は後に回すとして、今回も少し、頭の体操を兼ねて回り道をすることにした。私は竹林の絵を入手したのを機会に、他の物故画家たちが戦前にどのような竹林図を描き残していたのか、興味が湧き、あらためて調べてみることにした。調査を開始すると、<松林>などの画題の作品は多く目にしたが、<竹林>を描いた作品は意外と少ない事実に直面した。それでも、何とか6点の作品が見付かった。参考までに名前を挙げると、田中寅三<竹林(1898年第3回白馬会出品作)>、小山正太郎≪青梅風景(1902年作、山岡コレクション)>、河合新蔵<竹林(制作年不詳、星野画廊蔵)、安井曽太郎<孟宗籔(1918年作、福岡市美術館蔵)>、梅原龍三郎<山荘夏日(1933年作、三重県立美術館蔵)>、島崎鶏二<竹(1940年紀元二千六百年奉祝美術展出品作)>の6人である。写実画好みの私としては、図版で未確認の田中を除き、小山、河合、島崎の作品がやはり好みの画風である。一方、強く印象に残ったのは、梅原と安井両巨匠の作品である。まず梅原の作品は、当時としては洒落た山荘の庭に根を張る三本の竹に強い印象を受けた。竹節の武骨とも思える描写が何時までも私の心に残り離れない。安井作品については、<孟宗籔>の画題が付いていなければ、どう見ても見逃してしまいそうな竹林の描写が、妙に気になり、私の心に棘のように突き刺さっている。私が調査を終えて感じたのは、多くの画家たちが積極的に竹を描かなかった理由は、絵のモチーフとして、今一つ取り上げにくいと考えていたためであろう。
                    
 この辺で手元の作品に話を戻すことにしよう。まず絵を見たところ、手前の畑や奥の竹藪を含む一帯は、中央に描かれた農婦の所有地であることが推測できる。農婦は道路というより、畑の中の小道を歩いているようだ。よく見ると、収穫した野菜を入れた籠を背負っており、昼食をとるため自宅に戻るところかも知れない。画面下部は、収穫を終えた畑と思われ、多少取り残しと思える野菜も数か所見られる。中央付近には、節の目立つ五本の竹が描かれ、根元周辺には餌を啄む鶏が確認できる。竹も若竹と古い竹をはっきり区別できる丁寧な描写に心惹かれる。さらに上部右側から中央に向かって鬱蒼とした竹藪が描かれ、竹藪の中には杉も自生しているなど、筍を収穫するための手入れもせず放置したままなのであろう。視線を左方上部に移すと、垣根らしきものも見え、少し離れた場所に洗濯物と母子の姿が確認できることから、近くに母屋があることが想像できる。その周辺にも数本の竹が描かれ、画面からは竹藪の全体像が読み取れない。作者は注目すべきものは細密に、そうでないものはぼかした処理をし、画面の作り方に腐心した跡が見られる。
因みに、この作品から感じるのは、明治時代のどこにでもある農村の何気ない日常を表現したかったのだろう。そのため、令和の何かと忙しい時代だからこそ、一見して長閑な、時間が止まったような雰囲気に、自然と心惹かれるのかも知れない。さらに極言すれば、自己主張を抑えた墨絵の世界を見ているような気分である。

     
            風景      29.0×44㎝

 ところで、秀太の主な作品は、山口県立美術館に収蔵されているが、それらは永地姓に変えてからの官展出品作が主であると思っている。一方、手元の作品は、秀太が養子に入る前の有吉姓の作品であることから、明治美術会教場生卒業後、あまり遠くない時期の作品と言える。今回は、まさに貴重な初期作の発見につながった。私が驚いたのは、一世紀以上も経過し、しかも、先の戦争や関東大震災も潜り抜けてきた作品が眼前にあることである。さらに、少し強引であるが、私は明治30年第8回明治美術会出品作<風景>の可能性を期待している。私の仮説は、有吉姓を使用した明治美術会出品作には、手元作品に相応しい画題が<風景>以外に確認できなかったこと。さらに、独り立ちして日が浅い画家の玉子が、個展を開けるほど甘い時代ではなかったことがその理由である。ただ一つ気がかりなのは、当時開催されたすべての勧業博覧会等への出品の有無について、資料不足で確認できていないことである。

 このあたりで秀太の略歴を紹介することにしたい。資料によると、「1873年山口県都濃郡末武北村(現下松市)生まれ。旧姓有吉。徳山中学校卒業後、上京し本多錦吉郎の画塾彰技堂に学ぶ。90年松岡寿に師事し、後に明治美術会教場で学んだ。92年第4回明治美術会に出品、以後、5回、7、8回に出品。98年陸軍中央幼年学校に勤務。1902年太平洋画会創立会員。第1回展に出品、以後13回展まで連続出品、その後も、16、17、20~31、33、35、39回展に出品。07年東京勧業博覧会に出品、第1回文展に出品、以後、2~4、6,7、9、12回展に出品、日本水彩画会研究所教授。09年第3回文展で<静物>が褒状。12年第10回太平洋画会展出品作が宮内省買上げとなる。13年第7回文展で<しぼり>が三等賞、国民美術協会第1回展に出品。14年東京大正博覧会に出品、19年陸軍中央幼年学校教授。20年陸軍中央幼年学校を退官後、文部省在外研究員として渡欧。22年帰朝して、東京高等工芸学校教授。23年フランス政府より、レジオン・ドヌール勲章受章。24年第5回帝展に展覧会委員出品、以後15回展まで連続出品。26年第1回聖徳太子奉賛美術展に出品。35年第二部展に出品。36年昭和十一年文展招待展に出品。37年第1回新文展に無鑑査出品。38年石井柏亭らと北支方面に陸軍嘱託として従軍。42年12月14日、東京で没、享年69歳。」とある。他にも省略したが、資生堂ギャラリー美術展に5回出品していた。これらの事から、太平洋画会の運営には創立時から尽力し、主要な会員として活動したほか、文展、帝展に入選を重ね、画壇での地位を確立したことが分かった。

 最後に余談であるが、私が永地秀太(ながとち・ひでた)を知るきっかけとなったのは、2003年10月に府中市美術館で開催中の「もうひとつの明治美術」展で秀太の作品に出合ったことである。気になる作品が目白押しの中で、秀太の<静物>、<絞り>を目にし、何か控え目な印象に心惹かれた記憶がある。そのときひそかに念じたのは、いつの日か秀太作品を見付けようと強く心に刻んだ。その後、しばらくして、念願の静物画を入手することができ、今では時々、自室に飾り楽しんでいる。

 今思うに、物故作家の企画展などは、鑑賞の仕方次第で、意中の作家作品を入手する手助けをしてくれることを実感している。余計なお世話と思われるかも知れないが、「誰もが自分なりの目的をもって鑑賞するスタイル」をお勧めしたい。例えば、展示作品の中から気になる作品を1点だけでも記憶に留めてみては如何であろう・・・・

<参考資料>
日展史   もうひとつの明治美術展図録  明治期美術展覧会出品目録
第一回聖徳太子奉賛美術展覧会図録西洋画之部  美術八十年史(森口多里著)
資生堂ギャラリー75年史    梅原龍三郎遺作展図録   みづゑ432号
生誕110年記念 安井曽太郎展図録   日本近代洋画への道展図録