粋狂老人のアートコラム
          琴線に触れる線描から一人の画家に辿り着く・・・・藤田嗣治
         ジャン・コクトーの日本滞在記に触発された風俗挿絵とは・・・

 
 私の数少ない版画コレクションのなかに、線描が実に綺麗な作品を所蔵している。作品との出合は作者不詳であったが、線の美しさに思わず息を呑むと同時に、喉から手が出るほど欲しいと思った記憶がある。大袈裟でなく、出会いの時はそれほど綺麗な線に魅了されてしまった。勿論、サインもあり、御覧のとおり日本髪を結った着物姿の女性とねじり鉢巻きを締め、「京」の文字を白抜きした半纏姿の男性、その後方に子守の少女をすっきりと描いた切れ味のよさを感じる逸品である。最初に気になったのは、三人の人物の立ち位置である。これも遠近法と言っていいのか確信は持てないが、手前の女性を基点に、頭部と足元の両方から線を引いたとき、子守の少女の後方で交わることを計算した構図と思われる。作者の狙いは何か、おそらく、横一列などの平凡な構図を避け、鑑賞者に強く印象付ける意図があったと考えている。私には作者の本当の意図を知るすべはないが、この構図であれば、一度目にしたら細部にまで拘る綺麗な線描と相まって記憶に残ると思っている。
   
        
        
<子守り> 67/150 32.5×25.3㎝

ところで、作品のサインは「Foujita」と読めるが、よく目にする藤田のサインとは違う書き方のため、藤田嗣治以外の画家の可能性を考えた。しかしながら、藤田姓でこれほどの線描を描く画家を他に思い浮かばなかった。そこで改めて藤田の版画作品を確認してみた。すると、外国人の女性や子供、猫をモチーフにした作品が大多数であることが確認できた。所蔵の図録では、手元作品のような日本人をモデルにした作品は確認できなかった。唯一の収穫は、藤田作品は、どれも輪郭線が綺麗であることに気が付いた。他にも手元の作品の女性の顔や手の指の描き方に藤田を彷彿とさせる雰囲気を感じた。このことから、調査に自信が加わり藤田作品に的を絞り調べ始めた。

 この時点では、不詳の作品(銅版画)に直接関係があるかどうかわからなったが、ジャン・コクト-(1889~1963年)が戦前に来日した際、複数の日本人が案内をしていたことを思いだした。しかしながら、記憶が定かでなく、どの資料で目にしたのか覚えていない。それでも堀口大学(詩人)の名前は辛うじて記憶にあった。私の気になる病(?)は堀口大学以外の人物が誰なのかに関心が移っていった。
 確か以前に読んだ藤田関係資料によると、藤田嗣治とジャン・コクトーは交友があったことを思いだした。私は未だ見えていない探し物が、見つけたかのように胸の奥の何かが揺れ動くのを感じ始めていた。私はまず堀口大学とジャン・コクトーを調べてみた。すると実に興味深い事実として、「コクトーは1936年に来日し、出迎えたのは堀口大学」であることがわかった。しかも、コクトーは「世界早廻り80日旅行」の途中で、11日間日本に滞在していたことも確認できた。

一方、藤田は1933年11月に帰国しており、1936年当時は国内で活動していたことがわかっている。両者のこの状況であれば、誰が考えてもコクトーの案内役を藤田が買って出たのは当然の成り行きであったろう。その後の調査で、藤田は案内役をしていた事実も判明し、また一歩核心に近づいたことを確信した。コクトーの少ない滞在時間で藤田はどこを案内したのであろうか、まず尾上菊五郎の新歌舞伎十八番「春興鏡獅子」鑑賞、国技館での相撲鑑賞、明治神宮参拝、浅草や吉原の遊郭などを案内し、日本の文化や風俗を実感してもらったようだ。

 世界八十日早廻り旅行からフランスに戻ったコクトーは、1937年に旅行記を刊行している。私は原書を読んでいないので、詳しいことはわからないが、日本滞在時に初めて目にした鮮烈な印象を文章にしたことは想像に難くない。この原書は藤田も入手していたようで、日本滞在に関するページに多くの書き込みやスケッチを描き残していたことがわかった。藤田はコクトーの旅行記出版からしばらく経った1955年に、日本に関する部分を抜粋し、12章に再編成した挿画本「海龍(La Dragon des mers)」を刊行している。それだけでなく、藤田は友人のために25点の挿絵を特別に描いていた。挿画本は175部と非常に少ない限定版で、収録された25点の挿絵は銅版画で刷られている。作品は藤田が描いた素描を元に彫師がビュランで銅板に直彫したとある。

 最後に気になっていることについて触れたい。藤田は何故、1955年に日本国籍を抹消し、フランス国籍を取得した年に、選りに選って今回の挿画本を発行したのであろうか。藤田の心中には、戦争中の軍部への積極的な協力でもてはやされた反面、戦後の手のひらを反すがごとく戦争協力者の烙印を押され、画壇から追放しようとする仕打ちには納得できない思いがあったと推測する。このことは他人に推し量ることができない複雑な思いが入り混じっていたのではないだろうか。私はそのように考えている。そのため完全に日本を捨てきることはできずに、この機会を利用して、コクトーとの思い出を挿画本にすることにしたのかも知れない。

 今回、取り上げた作品は、175部限定本(注1)の為に描かれた150部限定の貴重な銅版画の中の一枚<子守り>である。今振り返ると、藤田作品に対する先入観に拘り過ぎていては、作者特定に至らなかったであろう。今は少し大袈裟かもしれないが、偶然の出会いを諦めずに調査し、五感(?)を活用し、可能な限りの考えをめぐらし、想像を膨らました結果、核心に辿り着いたと考えている。

 私は蒐集家の端くれとして、以前から藤田の版画作品に注目してきた。私の拘りは、巷でよく目にする外国人女性像などの版画ではなく、存在するかどうかわからない珍しい作品をいつの間にか追い求めてきたようだ。しかしながら、現実は厳しいもので、気になる藤田の版画は、どれも私の購入できる価格を超えており、その都度諦めざるを得なかった。それでも、1点は所蔵したい思いを持ち続けた結果、今回の出合があったと感じている。

 注1、挿画本は限定175部発行され、銅版画の限定制作枚数は150部と25部の差があるが、25部は作家保存版(知人等への贈呈分含む)と思われる。
 注2、藤田嗣治の略歴について、今回は省略することにした。あまりにも知名度が高いため敢えて載せる必要はないと判断させてもらった。
 
<参考資料>
藤田嗣治展図録各種   美術八十年史(森口多里著)  日展史
ジャン・コクトーの日本訪問(補遺II)(西川正也著)
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