粋狂老人のアートコラム
          琴ロンドン・ニュースの挿絵の原画は誰の作か・・・・・ワーグマン
         幕末から明治中頃にかけて日本各地の風俗や事件をスケッチ・・・

 
                               粋狂老人
 古い資料によると、私は今から26年前にチャールズ・ワーグマン(1832~1891年)について調べていたことがわかった。初めは画家としてのワーグマンを知りたい思いであったようだ。ところが調べ始めると、来日目的が英国の週間新聞「イラストレイテット・ロンドン・ニュース」の特派記者として、1861年(文久元年)4月に長崎にやってきた事実を知り、関心が画家からジャーナリストとしての活動に移って行った。
 当時の日本は、1853年ペリー来航、1854年日米和親条約と日英和親条約、1858年米英など五か国と修好通商条約により、外交官に限らず一般人も来日が許された。一方、ロンドン・ニュースは当時、世界の主な国に情報取集のため特派記者を派遣し、週刊新聞に記事を掲載していた。そのため、民間人の入国が開放されるや、いち早く日本にも目を向け、特派記者を派遣したことが理解できる。しかもワーグマンは画家であると同時にジャーナリストであるため、記者として打ってつけの人材であったと思われる。

 ワーグマンは何かと機転が利く人物であったと思われ、どんな伝手を使ったかわからないが、イギリス公使ラザフォード・オールコック一行の江戸行きに同行している。しかも特派記者として、幸運にも宿舎の東禅寺(日本最初の英国公使館が置かれた)で攘夷を唱える水戸藩脱藩浪士の襲撃に遭遇した。その場に居合わせたワーグマンは、イギリス人の拳銃等による応戦や公使らを警護する幕府の役人たちの戦いをスケッチし、早速、本国に送った。イギリスでは、当然、ワーグマンの臨場感のあるスケッチが話題となり特ダネをものにしたようだ。     
 私は「第一次東禅寺事件」の本国に送ったスケッチ(原画)を見ていないが、「日本近代洋画への道」展(於:2009年笠間日動美術館)に展示された<東禅寺浪士乱入図>を見ている。襲撃時刻は夜間と思われ、提灯の明かりに照らされた中で、死闘を繰り広げる人物の動きが写真以上の迫力で描かれていた。詳細は不明ながら、来日して初めて遭遇した大事件に驚き、当然、記者魂が芽生え、その場で戦いの場面を何枚もスケッチしたことが推測できる。東禅寺浪士乱入図はそれらのスケッチを基に油彩画を描いたと考えている。ワーグマンにとって、ロンドンでは見ることも体験することもできない日本の風俗などに大変興味を持ったことであろう。来日翌年の1862年には外国人居留地に住み、外国人向け風刺漫画の月刊誌「ザ・ジャパン・パンチ(1862~1887年)」を創刊。1863年には早々と日本人女性と結婚したとあり、よほど日本が気に入ったものと見える。
 ワーグマンの記録に残る活躍はまだまだ続く。1864年には下関戦争を取材し、1867年には大阪城で徳川慶喜とパークス公使、アーネスト・サトウとの会見に立ち会うなど重要な場面で取材をしていた。一方、本業での活躍もさることながら、そのまま日本に住み着いてしまうなど、当人にとって思いもよらぬことであったろう。

      
     <大山の仏寺で仔犬に餌をやるところ> 17.5×24.0㎝ 

 因みに、ワーグマンの絵画の腕前はどうであったのだろうか。写真も出始め使われていたものの仕上がりまでに時間を要する問題は解消されていなかった。それに引き換え、ワーグマンのスケッチは現場ですぐに描くため、取材の様子を見ていた野次馬にも人気があったようだ。勿論、描写も確かで、写真撮影と遜色ない描写が見物人を引き付け、とくに群衆の表現は抜きんでた技量があったことがロンドン・ニュースの挿絵からもわかっている。

 ワーグマンのスケッチの評判が世間に広がると、当然、弟子入りを希望する者が現れた。ワーグマンに師事した弟子のなかで確認できたのは、高橋由一、五姓田義松、山本芳翠、田村宗立、小林清親などが挙げられる。弟子に関して、石井柏亭が自著(日本絵画三代志)の中で次のように記している。それによると、「ワーグマンは性質上弟子を取ることを悦ばなかったらしいが、由一の熱心に動かされてそれを許諾し、以後親交を続けたと云われて居る。」とあり、ワーグマンの別の一面を垣間見た思いである。

 ところで、森口多里は自著(美術八十年史)の中で、ワーグマンのことを次のように紹介していた。参考までに一部引用すると、「ワーグマン(明治24年57)はロンドンの生まれで、安政年間(注1)に絵入ロンドン・ニュースの特派員として来朝し、日本婦人を妻として横浜に永住していた英人で、高橋由一も彼に就いて学び、また彼は幕末から明治初年にかけてのわが国の風物を数多く写したことに於て、その存在は忘れられ得ないものである。画家としては油絵や水彩を器用に描いたという程度の者であったが、洋画の技法を正式に学んだ者がなく、また洋画の技法ですらすらと属目の風物を写し得る者のなかった時代に於ては、彼の存在は重要であったのである。」とあり、人物紹介に止まらず日本洋画の黎明期の実情にまで踏み込んで論じている点に感心させられる。

 紹介が後回しになったが、手元に1873年11月29日発行版ロンドン・ニュースの裏面に掲載された挿絵がある。当時の絵入新聞は、国内外の色んな情報を文字だけでなく、挿絵によって伝えていたことがわかる。当時はまだ新聞に写真を印刷する技術が導入されていなかったため、木口木版(注2)による挿絵が画像の役割を果たしていたとある。当時世界で起こった事件を、写真家の撮影した写真や、特派記者によるスケッチを基に印刷し、紹介した「イラストレイテット・ロンドン・ニュース」は、日本の幕末から明治にかけての国内情勢を世界に伝える大切な手段となっていた。

 話を挿絵に戻すと、神社の境内で子犬たちに餌を与えている風景と思われる。この絵で興味を引いたのは、簪を挿した着物姿の後ろ向きの女性である。縦縞の着物に変わった模様の帯を締め、足元に目をやれば高下駄を履いている。ほかにも高下駄を履いた男性や草履姿の男女が確認できる。さらに子犬の描き方も、餌に群がる子犬、走り回る子犬、じゃれあう子犬、うずくまる子犬と現場の動画を見ているような臨場感が伝わってくる。さらに群衆の配置や表情の一瞬の変化や動きをカメラで写しとったと見紛うばかりに捉えている。因みに、人物を数えてみたら、小さな紙面にもかかわらず20人も描かれていることには驚く。写真撮影であればスナップ写真の部類と思われる。違う点は左側の人物を大きく、右側に向かって少しずつ小さくし、石段を上がる人物を終着点のごとく小さく描いているのを見ると、遠近法を巧みに取り入れるなど予め計算された構図のようである。勿論、見落としがちであるが、光の当たっている箇所と影の描写も抜かりなく表現しており、基本通りである。

 ここまで来ると、スケッチ(原画)の作者は誰なのかに関心が移る。ロンドン・ニュースの特派記者で1861年(文久元年)に来日し、1873年当時国内で活動していたのは、ワーグマンただ一人である。このことから作者はワーグマンであると結論づけた。最初、候補として、ジョルジュ・ビゴー(1860~1927年)も頭に浮かんだが、仏国生まれの彼は、当時十代で来日していないことから対象外とした。

 私は挿絵に出合ったとき、人物の姿から見て幕末の銅版画と思って購入を決めた。勿論、原画の作者を調べてみたい思いが背中を押したことは確かである。その後、調べを進める中で銅版画と思ったのは間違いで、木口木版であることがわかった。作品は英字新聞の裏面に印刷された挿絵であるが、すでに147年は経過していることに吃驚する。当時は大量印刷されていたので、果たして価値があるかどうかはわからないが、当時の風俗を知るうえで参考になると考えている。

 最後に気になっていることがある。それはスケッチを基に木口木版を彫ることまではわかるが、印刷の順番はどのようにしたのであろうか?裏面は新聞のため前面に文字(記事)が印刷されている。挿絵の周りにも記事が印刷されており、枠内に収まるように挿絵を印刷する方法が、門外漢の私には理解できていない。また、当時のロンドン・ニュースは、日本に届いていたのか未確認のため気になるところである。

 実は原稿を書き上げた後であったが、一寸嬉しい出来事があったので付け加えることにした。何と以前から探していた古書(描かれた幕末明治・・・)が安価で入手できたのである。早速、内容を確認すると、206ページに手元の挿絵が掲載されていた。挿絵の題は「大山の仏寺で仔犬に餌をやるところ」と紹介されていた。他にも肝心の東禅寺襲撃事件に関するスケッチは、70ページから72ページに「オリファント、モリソン両氏への襲撃」「公使館の庭でのヤクニンたちの野営」「江戸東禅寺のオールコック氏の部屋の真夜中の情景」の各図版が1861年10月12号に掲載されていた。しかしながら「東禅寺浪士乱入図」とは異なるものであった。このことから、ワーグマンは現場で複数のスケッチをしていたことが裏付けられた。勿論、肝心の挿絵の基は、私の極めとおりワーグマンの手になることが確認できた。今回の作品との出合も嬉しい結末を迎えることができ、ほっとしている。

(注1)ワーグマンの来日について、森口多里は自著のなかで、安政年間としているが、現在は文久元年が通説となっている。
 (注2) 木口木版(こぐちもくはん)英語ではwood engraving 仏語でgravure Surbois debout ヨーロッパに発達したもので、板目木版とちがい、木口(幹を輪切りにした面)の版木を使って版を作る。ツゲやナナカマドのほか、小さい木を寄せ集めて接着させたものを多く使う。黒白の濃淡が無数の線によって表わされる。ゼラチン製のローラに堅く練ったインキを少量つけて、版画につけてプレス機を使って刷る。ふつうは墨一色であるが、多色刷のものもある。

<参考資料>

美術八十年史(森口多里著)   版画(小野忠重著)  日本絵画三代志(石井柏亭著)
美術用語辞典(佐田勝著)  京都洋画の黎明期(黒田重太郎著)
日本近代美術発達史「明治篇」(浦崎永錫著)  明治の洋画―記録から藝術へ―展図録
実力画家たちの 忘れられていた日本洋画(住友慎一著)
描かれた幕末明治イラストレイテット・ロンドン・ニュース日本通信1853~1902金井圓編訳