粋狂老人の
     画家・釣り研究家。写真家の顔を持つ多才な人物とは・・・・・永田一脩
     長年探していたツワブキの花の絵に出合う・・・・・

 

 小春日和の昼下がり、退屈しのぎに新聞を読んでいたら、ポカポカ陽気に誘われ、ついうとうとしてしまった。慌てて足元に落ちた新聞を拾い上げようとして、何気なく庭を見ると、視線の先に寒椿の花が目に入った。今年の陽気は、初冬というのにまるで初秋に戻ったかと思える暖かさである。それでも植物はいつもの年と同じように時期が来ると蕾を付け、開花していることに驚かされる。隣家との塀際に目を移すと、今年もツワブキが黄色い沢山の花を開花させ、陽光に輝き私の目を奪う。
記憶を辿ると、自宅を新築した際、素人なりに作庭を考え、素案を基に造園業者に植木の配置などをお願いした。その際、ツワブキと寒椿も植えて貰った記憶がある。当初は花も咲かなかったが、二年目に待望の小さな花を付けはじめ、翌年からは毎年のように坪庭を華やかにしてくれている。私は初冬の花の少ない時期に、艶のある濃い緑色の葉と沢山の黄色い花を付ける姿を気に入っている。

 回り道になるが、私がツワブキを好きになった訳は単純である。若い頃、友人の結婚式に招待され、都内の某ホテルに出掛けたことがある。その日は開始時刻まで間があったので、ホテルの庭を散策した。私にとって、このようなホテルを訪れるのは、滅多にない機会なので、庭石の配置や松の古木など見て回った。記憶が定かでないが、庭の設計は回遊式になっており、散策の途中で庭石と庭石の隙間に濃い緑色の葉の群生を見つけた。最初、フキの葉のように思えたが、近づいてみると、しっかりした茎と艶のある葉であることから違う種類であることが一目でわかった。しかしながら、その場では植物の名前はわからず仕舞であった。
 その植物のことはすっかり忘れていたが、日課にしている散歩の途中で、或るお宅の庭に同じ植物を目にし、いつもの気になる病(?)が頭を擡げてしまった。そこで急ぎ自宅に戻り植物図鑑で調べると、ツワブキであることが確認できて以来の付き合いである。

 思い付きは単純であるが、ツワブキが好きになったことから、いっその事ツワブキを描いた絵を探してみようと思い立った。しかしながら目的のツワブキを描いた絵にはこれまで出会う機会がなかった。私は途中でその思いを諦めかけたが、その後も出会いを待ち続けた結果、この程やっと念願がかなった。しかも作者不詳である。私は出会いと同時に、作者特定のため記憶の引き出しを一つ一つ開け始めた。すると写実的な作品を残している「NAGATA」姓の作者は一人しか記憶にないことを思いだした。私には、サインもさることながら画風に記憶があった。静謐な中にも味わい深い画家の個性が、そこはかとなく見る者に伝わってくる点に注目した。その結果、肝心の作者は「永田一脩」であることを突き止めた。

 永田作品との出合は数十年前の骨董市までさかのぼる。それは一枚の静物画をめぐって、最初、私はあまり乗り気でなかったが、出店の主人が一生懸命勧めるので、根負けして買い求めた記憶がある。当時の私といえば、絵画蒐集の駆出しのような存在で、右も左もわからない危なっかしい収集家(?)であった。それでも画家の作風やサインについて記憶する訓練を少しずつ始めていた頃である。

      
        つわぶきの花のある静物    50.0×61.0㎝

 話しを肝心の作品に戻すと、12号の静物画である。作風は一時の少しシュール系の描写から私好みの穏やかな作風に変わっているようだ。まず目に飛び込んでくるのは、自分の好みも影響してか、李朝風の花瓶に挿してあるツワブキの黄色い花と濃い緑色の葉である。これが背景とうまい具合に調和して自然な印象を与えている。勿論、ぶどうや熟した柘榴、枝付きの柿、ピーマンなどの描写も見事で配置も自然である。ほかにも白いテーブルクロスであろうか、さりげなく描くなど心憎い演出である。説明が後回しになったが、私の作品鑑賞のチエックポイントには光の表現も含まれる。この作品では、画面左側手前上から射していることが、花瓶や果実の描写からわかる。勿論、柘榴などの影の描写も抜かりなくテーブル上に表現することを忘れていない。これらのことからも、当然のことながら、作画の基本を忠実に実行していると思われる。因みに、永田は1973年に初めて個展を開催したとあるが、私はサイズや作品の出来栄えからみて、手元の絵は当時の代表作に近い作品と感じている。額も豪華な元額と思われ、画家本人も相当力を入れていた作品に間違いないと考えてよいであろう。

 ところで、永田は何故東京美術学校西洋画科で学んだにもかかわらず、釣りや写真に手をだしたのであろうか。仮に画家一筋で活動していたら今頃どうなっていたのか興味の尽きないところである。
 実は私の手元に「東京の肖像1920‘S」展図録がある。これは1986年に板橋区立美術館で開催された展覧会で、図録を開くと、あいさつのなかで、1920年代の都市東京の美術を散策するために次の4つの観点からみていただきます。(1)関東大震災、(2)モダニズム、(3)前衛美術、(4)プロレタリア・アート。「描かれた東京の景観」を懐古する旅ではなく「東京が何を描こう」としていたのかを感じとっていただければ幸いと思います。」とあり、さらに頁を捲ると「プロレタリア・アートと社会派」のなかに永田の作品<プラウダを持つ蔵原椎人>が掲載されている。私はこの展観を見逃したが、当時は相当話題になった作品のようである。当時としてはお洒落なブルーの長袖シャツを着た蔵原椎人が椅子に腰かけ、プラウダを左手で持ちながら膝の上に置くポーズを左側から写実的に描いた作品である。何といってもブルーのシャツの描写がいつまでも記憶に残る逸品である。

 永田を語るうえで欠かすことができない「上杜会」について触れておきたい。この会は1927年3月東京美術学校卒業生全員(中途退学者含む)で結成された級友会である。会員の一部を紹介すると、小磯良平、牛島憲之、大月源二、荻須高徳、中西利雄、山口長男、猪熊弦一郎など錚々たるメンバーである。1927年9月には第1回展を開催し、途中一時中断するも1976年には50周年展を開催し1994年まで継続されている。日動画廊五十年史によると、各方面から選ばれた26人の顔写真入りのコメントが載っている中に、永田も上杜会会員としてコメントを寄せている。一部を紹介すると、「この会が昨年(注・昭和51年)6月に日動サロンで、五十周年展を開き、今年もまた五十一周年目の展覧会をやる。もちろん日動画廊のご好意によってである。」等と書き残していた。

 略歴の紹介が最後になったが、やはり大事なことなので触れることにした。永田は「1903年福岡県門司市生まれる。22年第4回帝展に初入選。23年東京美術学校西洋画科に入学し、藤島武二に師事。同期の大月源二らと前衛美術運動に参加し、未来派美術協会展などに出品。27年東京美術学校卒業、11月の第1回プロレタリア美術大展覧会に<プラウダを持つ蔵原椎人像>を出品。同年上杜会第1回展に出品、以後、毎回出品。28年全日本無産者芸術連盟(ナップ)の結成に参加。30年一斉検挙にあう。39年滝口修造らと「前衛写真協会」を結成。シュルレアリスムに傾倒し、独特の世界を展開した。41年東京日日新聞社(現毎日新聞社)に入社し、戦後は「カメラ毎日」創刊より同誌編集に携わる一方、日本美術会会員となり日本アンデパンダン展などに出品。56年、バーモント・ニューホール著「写真の歴史(白揚社)」を共訳した。58年毎日新聞社を定年退職。73年個展開催。ほかにも、山岳写真や釣りの分野で活躍、写真と文章で構成した著書「山釣り、海釣り」もある。魚拓の専門家としても名高く、その活動領域は極めて多岐にわたっている。67年東京勤労者つりの会の会長をつとめる。88年4月9日横浜で没、享年84歳。」とあり、永田は画業に飽き足らず、釣りや写真の分野にまで間口を広げ過ぎたようだ。そのため本来注力すべき画業が疎かとなり、埋れてしまったと考えるのは早計であろうか。私は東美入学前にして、帝展に入選するほどの実力の持ち主をこのまま埋れさすのは惜しい気がするが、画家本人はどのように感じていたのだろうか。

 コラム原稿を書き終えたのを機会に書斎の絵を掛け変えることにした。私は作業を始めて、絵の購入時のルーチンワークをしていないことを思いだした。いつもは額の裏板をはずし、必ず作者名などの書き込みがないか確認してきた。今思いだしてみると、裏板を十箇所以上も丁寧に螺子で止めてあったので、後回しにして忘れていたようだ。今回開けてみて、画題は<つわぶきの花のある静物>、1976年10月制作であることがわかった。勿論、作者は私の極めとおり永田一脩と書いてあった。

 因みに制作年が1976年10月であることから、当初、考えた1973年の初個展出品作の思惑は外れた。次に注目したのは、上杜会50周年記念展であるが、これも残念ながら上杜会は同年6月開催であった。となれば、1977年上杜会51周年記念展(於:日動サロン)への出品作の可能性が大きくなった。しかしながら、今のところ資料不足で推測の域を出ない。何はともあれ無事作者特定が出来たことで満足することにしよう。

<参考資料>
東京の肖像1920‘S展図録    日本写真家事典    日展史
日動画廊50年史