粋狂老人のアートコラム
          小田原提灯に魅せられ、いつの間にか集まった品々・・・
          身近な日用品に見られる「用の美」とは・・・・

 
 子供の頃に歌った童謡の中に「お猿のかごや」の歌を記憶している。曲は子供にも歌いやすい歌詞で、そのうえ曲のテンポもよく、音痴の私でも苦労せずに歌っていた。それでも、今思い出してみると、歌詞の中の「小田原提灯」がどんな物なのか、当時は全く無関心であった。

ところが、40年以上前であったろうか、家族で骨董市に出かけた折、めぼしい収穫もなく「帰るよ」と家族に声をかけた。そのとき、少し遅れてついてきた子供が、会場入口近くの出店で、何やら黒くて丸い物を手に持ち立っている姿が見えた。私は不審に思い急ぎその場に取って返し、子供の手にしている丸い物を受け取り店主に顔を向けた。すると、店主は透かさず小田原提灯(ブリキ製)であると言いながら、私から丸い物を受け取り、折りたたんである胴部分を伸ばして見せてくれた。そのうえ、昔の人は蝋燭に火を付けて、底板の突起に蝋燭を差し込んで、現在の懐中電灯の代わりに使ったことなど説明してくれた。さらに「今では大変貴重でお買い得ですよ」と付け加えた。私は大して興味もなかったが、子供が物欲しげな顔をしていたので結局買う羽目になった。これが小田原提灯との最初の出合である。当時、私はこのことがきっかけで、小田原提灯の蒐集にのめり込むとは夢にも思わなかった。

その後、暫くして、たまたま立ち寄った隣町の郷土資料館で、展示品の中に小田原提灯を見つけた。近づいて見ると、提灯の赤銅の上蓋の見事な透かしや胴部分の油紙は破れもなく、確か胴には家紋もあったと記憶している。目にした瞬間驚いたのは、状態のよさであった。まるで昨夜まで使っていたかのような印象さえ受けた。私は小田原提灯との二度目の出合が、眠っていた私の蒐集癖(?)に火を付けたと思っている。
                       
             小田原提灯全体図
 
 私はコラム原稿の準備のため小田原提灯について、いくつかの専門書を調べてみた。まず、学研 新世紀大辞典では「折りたたみ式の持ち運びに便利なちょうちん。胴は円筒形で竹の骨に油紙をはり、上下に金属の枠を用いる。江戸時代小田原で創製したという。」と説明があり、一方、集英社国語辞典では「伸び縮みする細長い提灯。携帯に便利。天文年間(1532~1555年)に小田原でつくられたという。」とあった。岩波国語辞典では、「のびちぢみでき、いらないときは折りたたんでおける細長いちょうちん。天文年間、小田原の人の創製という。」とあった。また、提灯として調べると、旺文社 標準漢和辞典では「竹でつくった骨組みの上に紙をはって、中にろうそくをともすようにした照明具」とあり、どの説明文も今一つ何か物足りない感じである。その後、私は無謀にもこれらをまとめることで、完璧な説明になるのではと勝手に思ってしまった。

 何故、私は小田原提灯を集めてみようと思ったのか、理由はいくつかある。一つ目は、世の中から忘れられ、絶滅危惧種(?)目前の今のうちに集めておきたいと考えたこと。二つ目は、私にも買うことが出来る価格帯であったこと。三つ目は、材料やデザインが多様で興味が尽きないこと。四つ目は、胴部分の家紋や提灯を入れる当時の布袋に、持ち主を想像できる痕跡を留めていること。五つ目はサイズが小さいため、保管が容易であること。六つ目は、物が集まると、もっと集めたくなる蒐集家の性が働いたことなどである。

 私が蒐集を続ける中で残念に思っていることがある。それは、提灯の胴の部分は竹の骨に油紙を貼りのびちぢみできるため、竹の骨が折れたり、油紙が破れたり、最悪の場合は、胴の部分が消失している物も多い。勿論、当時は日常毎晩のように使い消耗がはげしい部分あるためで止むを得ないのであろう。今となっては、上蓋と底板の金属部分だけでもせめて残っていることでよしとすべきなのかも知れない。

 ところで、小田原提灯がそれなりに蒐集できたことで、少し分かったことがある。参考までに紹介すると、(1)材質:赤銅、四分一(注1)、真鍮、鉄、ブリキ、が確認できる。(2)家紋:提灯本体の油紙の胴部分、提灯を入れる布袋にそれぞれ表示していたことがわかる。(3)金属わく(上蓋):家紋の透かしや彫刻など模様を施したものがある。(4)布袋:携帯用に懐や袂に入れて持ち歩くため、提灯を入れる布袋が残っている。(5)くさり:提灯を提げて持ち歩くために、本体の持ち手に付けて使用するもの。(6)蝋燭筒;蝋燭を入れるための専用の木製や竹製の筒が確認できる。(7)箱型入れ物:非常に珍しいが、提灯本体が金属製のため、形に合わせた箱を作っているものが見られる。

 今回は数ある蒐集品の中から5点ばかり取り上げてみようと思う。
1点目は<波に干し網図提灯>である。私の所蔵品のなかで唯一上蓋に波、干し網、植物を彫刻してある逸品である。材質は上蓋、底板とも赤銅を使用し、中蓋は開閉できるように鋲で止め、何故か真鍮を使用している。中蓋には花をデザインした透かし模様がある。底板の中央についている蝋燭差し込み用の金具は、使用時のみ立てて、使わないときは倒したままにできるなど携帯用に便利な工夫の跡が見える。上蓋には真鍮の持ち手が付き、持ち手にはくさりが付いている。胴部分の油紙は小さな破れがあるが比較的状態がよく、家紋も確認でき、この状態で残っているのは非常に珍しい。推測するに、おしゃれに拘りのある人物の持ち物であったことが想像できる。
          
              波に干し網図提灯          

 2点目は<銅線編み込み提灯>である。見た瞬間、提灯に藤まで使っている柔軟な発想に吃驚した記憶がある。しかし、手に取り仔細に見たら、籐ではなく銅線であることが分かった。上蓋は針金で隙間もなくしっかり編まれている。そのうえ蝋燭を入れるための赤銅の開閉式中蓋は、左右に開けるように割れている斬新な造りに目を奪われた。驚くのは中蓋を左右それぞれに鋲で留め、持ち手も金具で留めるなど、江戸期の物とは思えない頑丈な作りである。残念なのは、胴部分の油紙や竹の骨は、上蓋と底板に辛うじて確認できる残骸だけなのが惜しまれる。いずれにしても、金属板から作った提灯が多い中にあって、銅線を編んだ提灯は、用の美を意識させる珍しい逸品と受け止めている。  
           
              銅線編み込み提灯

 3点目は<丸に鷹の羽紋提灯>である。赤銅製のくさり以外は、上蓋、底板、中蓋、持ち手が四分一を使用している。何といっても驚くのは、江戸時代、武士が用いた「丸に鷹の羽紋」を中蓋に使用していることである。このことから、当時は武士が夜道に携行したものと思われる。さらに嬉しいのは、当時の提灯用の布袋も残っていた。私のような素人にはわからないが、研究者にとっては、垂涎の的かも知れない。とどめは、油紙がはってある胴部分には小さな破れ穴が開いているものの、木版のような家紋や判読不能の漢字がはっきりと確認できる。私の収蔵品の中では、上位に位置づけられる提灯である。    
          
              丸に鷹の羽紋提灯 

 4点目は<久世橋紋提灯>である。材質はくさりの残欠以外は、すべて赤銅で作られている。最初に目に付くのは、中蓋の透かした「橘」の家紋である。資料によると「橘一族の家々や、武家の井伊氏、薬師寺氏、土田氏、小寺氏、安芸氏などが使用していました。」などの説明があることから家紋の歴史は相当古いことが分かる。私は「久世橋紋」としたが、橘の家紋は種類が多く、微妙な違いがあるため正確なのか多少不安が残る。一方、状態は上蓋、底板、中蓋、持ち手ともに銅製品特有の緑青も見られず、最近まで使っていたかのような印象を受ける。しかしながら、胴部分の油紙や竹の骨は、残欠もない状態である。
           
              久世橋紋提灯                      
5点目は<十二菊紋提灯>である。材質は中蓋の根元を留めた真鍮以外はすべて四分一である。上蓋には上下左右四箇所に透かし模様があり、中蓋は十二菊の家紋を透かしている。さらに上蓋、底板には丸みを付けずに角張った作りも手伝ってか、ある種の品格さえ感じる。嬉しいことに、胴部分の油紙には、破れはあるが、「丸に片喰紋」と「丹治」の墨書きが確認できる。資料によると「片喰の葉を象った紋。平安・鎌倉期から文様として親しまれ、南北朝時代頃、家紋に転化しました。」とあり、家紋の歴史は相当古いことがわかる。因みに、付属品として竹製の蝋燭入れと当時の布袋もあり、火打石以外はすべて揃った貴重な提灯である
                    
              十二菊紋提灯
そういえば、或る資料で目にした役者絵のことを思いだしたので、最後に紹介することにした。それは東洲斎写楽の版画作品で、<市川男女蔵の富田兵太郎>という題である。男女蔵の富田兵太郎が右手で脇差の柄を握り、左手で小田原提灯の持ち手を持って、前方の暗闇を睨んでいる構図と思われる。夜道で曲者の気配を感じ、思わず脇差を握った場面のようだ。因みに、小田原提灯を見ると、上蓋、底板ともに黒く彩色されていることから当初ブリキ製と推測した。しかし、自分の極めに疑問を感じ、調べてみると、日本国内でブリキが登場するのは明治初期と確認できた。そのため今のところ材質はわからないままである。一方、提灯の胴部分には家紋らしきものも描かれており、それなりの身分の武士の様である。画面を見て違和感があるのは、小田原提灯のサイズである。全体のバランスを考慮したのか、実物より相当大きく描いているようだ。一方、私は物語の筋書きを理解しておらず、写楽がどの場面を版画にしたのか調べてみたくなった。
 最近はめっきり見る機会も減ったが、以前は時代劇映画を見ると、劇中の役者が小田原提灯を袂から取り出して、火打石で蝋燭に火を付けるシーンを見た記憶がある。ところが当時の私は、その場面をスルーし、斬り合いの場面に目を奪われていたようである。一方、これだけコレクションが増えると、その種の小道具の使い方にも、自然と目を向けることになると思い始めている。

注1、四分一とは金属工芸で使われてきた日本古来の色金のひとつで銀と銅の合金である。合金における銀の比率が四分の一である事から名付けられた。 煮色仕上げで美しい銀灰色を示すことから朧銀とも呼ばれる。(ウィキペディア情報を引用)
 注2、掲載した提灯の名称は、説明するうえで便宜上私が仮に付けた名前である。
 <参考資料>
 学研 新世紀大辞典    集英社 国語辞典   岩波 国語辞典