粋狂老人のアートコラム
          誰にも気づかれずに私の手元に来た素描画のこと・・・・・川島理一郎
         「色彩の旅人」と呼ばれた画家の素描画に注目・・・・

 
 コロナ禍による緊急事態宣言以来、自宅に引きこもっている日々が二年目に入ってしまうなど予想外であった。いつもは調べものに忙しい私も、さすがにこのところ少々暇をもて余し気味である。気を取り直し書棚から古いアトリヱ(美術雑誌)を取り出し、頁を捲って見た。雑誌の表紙には目もくれずに頁を捲ると、次々に日本画家、洋画家、彫刻家たちの素描が現れた。一瞬、心に浮かぶものがあり、あらためて表紙を見直すと、そこには「現代作家素描集」とあり特集号の記憶が蘇ってきた。今まで何度か目にしてきたが、手に取るのがしばらく振りのためか記憶が薄れていたようだ。頁を捲ると梅原龍三郎の<裸婦(残念ながら切り取られている)>から始まり、菊池契月の<印度の女>、土田麦僊の<蓮の写生>がカラーで載っている。他にモノクロームで64点ほどが確認でき、その顔触れたるや錚々たる作家たちで予想以上に見応えがある。因みに洋画家では、岡田三郎助、石井柏亭、山下新太郎、安井曽太郎、山本鼎、満谷国四郎、小出楢重、前田寛治、坂本繁二郎など多数。日本画家では村上華岳、福田平八郎、川端龍子、松岡映丘、前田青邨、竹内栖鳳、川合玉堂、安田靭彦などが確認できる。彫刻家では藤川勇造、佐藤朝山、堀進二、藤井浩祐、斎藤素巌、吉田久継が確認でき、よくこれだけの作家たちが協力してくれたと感心させられる。これだけ多くの素描作品を一度に目にすると、それぞれの作家の個性や素描に対する考え方の違いがおのずとわかるような気がするので興味深い。
 一方、数人の作家が素描について考えを寄せているので、そのうちの二人について紹介することにした。一人目は、日本画家の「土田麦僊」である。麦僊は「古人は粉本の練習によって素描の力を鍛へそして自然を見ました。今人は自然の深い写実から古人の素描を会得し様とします。我々の仕事の上に安心して自由に素描ができるやうになれば、どんなに楽々と画が描ける事かと思います。」とあり、麦僊ほどの実力者であっても、このような思いで画業に取り組んでいることに驚かされる。もう一人は、彫刻家の「斎藤素巌」である。一部を紹介すると「彫刻と素描とは勿論別物であるが、それでゐて目指すところは大して変わりはない、と私の様な昔風の人間は考えてゐた。土でこねた素描が彫刻で、紙にかいた彫刻が素描である、と考えても大して間違ひはないと思ってゐた。昔は素描と云えば、画家(若くは彫刻家)が、自然を描写する技術の練習にやったもの、これが一人前に出来ない人間に、美も藝術もヘッタクレもない訳であった筈なんだが、今ぢゃあそれが大分異なって来てゐるらしい。―以下省略―」とあり、麦僊の謙虚さと大きく異なる考えを持っていることは、彫刻家ならではの考えなのであろうか。いずれにしても、素描を鑑賞するうえで参考にしたいと思っている。

 ところで、最近、作者不詳の牡丹図(素描)を入手した。牡丹の油彩画は数点所蔵しているが、素描画は初めてである。今回は記憶力が効を奏し、出合った瞬間に「川島理一郎」の作品であることがわかった。それは過去にみづゑ(美術雑誌)で何度か素描を目にし、サインを含め特長を記憶していたことに外ならない。ところで、念のため川島が牡丹を作品のモチーフに使い始めたのはいつ頃か調べてみた。判明したのは、1947年が最初で、その後も1961年まで作品が確認できた。川島の<蘭花>の作品は今まで何度か目にしてきたが、今回の調査で牡丹も描いていたことを初めて知ることとなった。

               
           牡丹図   35×24.5㎝

 牡丹図に話を戻すと、大輪の花を画面中央やや左よりに、蕾を右上に配置し、花を下から取り囲むように葉を描くなど、花を生ける際に全体のバランスや配置を考えていることが読み取れる。一方、牡丹図からは画面からはみ出しそうな勢いと力強ささえ感じられるのは、川島ならではの技量のなせる業であろうか。一方、写実好みの老人としては、輪郭線だけでなく、対象物の陰影や立体的表現にも踏み込んで欲しかったという思いも多少残った。因みに、絵付けのある花瓶は、一見して日本の物とは異なり、欧州系の焼物と思われる文様である。念のため、図録掲載の静物画を確認したところ、大方が手元の作品と同じような絵付けのある花瓶であることがわかった。おそらく滞仏中に購入したものであろう。手元の図録では、スケッチ、画稿、水彩なども掲載されているが、未完成と思えるような作品がほとんどである。それらに比べ手元の牡丹図は、手抜きがなく、真剣に対象と向き合って制作した作品と考えている。因みに、「色彩の旅人」と呼ばれた川島の油彩画を理解するうえで1点は欲しいところであるが、現状では望むべくもない高嶺の花である。私は待つことに慣れているので、慌てずにその日がくるまで待ってみようと思っている。

 毎度のことであるが、この辺で川島の略歴を簡単に紹介することにしたい。川島は「1886年3月9日栃木県足利市生まれ。91年上京。99年日本橋有馬小学校卒業。後、三井呉服店に奉公。05年渡米。06年ニューヨーク第14パブリックスクール卒業。10年コーコラン美術学校四年課程を二年で卒業。11年アカデミー・オブ・デザインを優秀な成績で卒業。同年渡仏、アカデミー・ジュリアンに学ぶ。12年アカデミー・コラロッシュに2年ほど通う。13年サロン・ドートンヌに初入選。この年、藤田嗣治と自分のアトリエに同居する。19年米国経由で帰国。資生堂で個展。20年渡仏。22年サロン・ドートンヌ会員に推挙される。23年帰国。関東大震災のため、滞欧作200余点を焼失。24年白日会の結成に会員として参加する。渡欧。25年帰国。国画創作協会第二部同人。30年シベリア経由で渡欧。31年帰国、滞欧作品を積んだ貨物船がインド洋で沈没した知らせを受ける。35年国画会退会。43年東京府美術館評議員に依嘱される。45年箱根に疎開。46年女子美術専門学校(現女子美術大学)教授となる。48年日本芸術院会員となる。49年日展運営会理事。55年新世紀美術協会結成、名誉会員。56年飯田李花子と結婚。58年日展理事。61年4月夫人同伴渡欧、6月帰国。65年勲三等瑞宝章。66年3月渡欧、5月帰国。69年日展顧問。70年画業60年記念川島理一郎展(渋谷東急日動画廊)開催。71年10月6日死去。享年85歳。」とあり、他にも紹介を省略したが16回ほど個展を開催していた。また、川島は略歴からもわかるように度々渡欧していた。その主な理由は、貨物船の沈没で失った滞欧作品を新たに制作することで取り戻そうとしたと考えるのは私だけであろうか。

 最後に驚きのサプライズを準備しているので紹介することにしたい。それは私のルーチンワークである額の裏板を開いたときのことである。私の本来の目的は、作品(キャンバスや紙の)の裏に作者の痕跡を確認することである。いつも通り裏板をはずすと、何と一枚の画用紙が出てきた。最初は水彩画や版画などの作品保護用の中性紙と思ったが、裏返してみると、牡丹の絵が現れたのには正直吃驚してしまった。絵はクレヨンで描いた牡丹図である。構図は一輪の牡丹の花で、花瓶には絵付けが見られるなど、川島と同じ時期に描いたものと思われた。サインは「Rikako」と読めることから、最初は女流画家を考えたが、思い当たる人物はいなかった。

            
              Rikako作 牡丹図 

私は川島の作品と同じ額に入っていたことからして、むしろ川島の身近な存在に注目した。そこで川島の略歴を調べると、1956年4月、川島は「飯田李花子」と再婚していたことがわかった。しかも川島が牡丹の作品を描いていた時期と符合するため、川島夫人の作品と極めてみた経緯がある。さらに私の勝手な妄想であるが、川島夫妻の作品が一緒にあることは、夫妻に近い存在か、かなり親密な人物が所蔵していたことを裏付けるものと推測している。

 余談であるが、川島の略歴を調べていて、1923年9月関東大震災のため、滞欧作200余点のほとんど焼失し、さらに1931年、滞欧作を積んだ貨物船がインド洋で沈没するなどの災難にあっていたことがわかった。また、記憶を辿ると永地秀太(1873~1942年)は、山口に疎開する際に東京から送った作品すべてが紛失している。安田稔(1881~1965年)も関東大震災で、ドイツから持ち帰った美術書や作品はすべて焼失した。さらに、松尾松濤(1883~1962年)は1943年荻窪の自宅火災で所蔵していた300点の作品を焼失している。萩谷巌(1891~1979年)は1945年アトリエと住居が戦災によりすべての物を失った事実がある。関東大震災や戦争を体験した我が国においては、これらはごく一部の出来事かも知れない。実際にはもっと多くの作品が焼失していることは想像に難くない。また、近年では阪神・淡路大震災や東日本大震災により多くの個人所蔵品等が、焼失し津波の影響を受けたと思っている。首都直下型地震や南海トラフ地震が近い将来発生すると言われていることを考慮すると、個人の所蔵品も最低限の対策を実行する時期が来ているのかも知れない。

<参考資料>
川島理一郎展図録    日展史    美術雑誌アトリエ(第六巻第一号)
資生堂ギャラリー75年史   名古屋画廊の70年  
日本絵画三代志(石井柏亭著)  みづゑ373号、402号、440号
美術八十年史(森口多里著)   第一回聖徳太子奉賛美術展覧会図録