粋狂老人のアートコラム
       見覚えのある素描画(風景)に思わず心が動いた・・・・・佐藤章
       北は北海道の江差から南は沖縄の與邦国まで民家を探し描く・・・

 
 昔を振り返ると、現役の時分、休日にはお寺巡りを楽しみたいとの単純な発想から、京都を希望したが、結果は希望叶わず岡山に転勤した記憶がある。大組織の場合、個人の希望通りに人事が決まることなど滅多にないくらいのことは百も承知の上であった。それでも懲りずに、何度か希望したが、最後まで希望が叶うことはなかった。勿論、中国地方が嫌いなわけではなく、いざ赴任してみると、関東とは異なる良さが徐々にわかって、岡山での生活をエンジョイした記憶が残っている。
 特に岡山に隣接する倉敷市にはよく出かけた。一人で出かけたこともあるし、同僚と一緒のときもある。5月の連休のときなど、東京から職場の同僚が押し掛けてきたこともあった。彼らの目的は岡山や倉敷の観光ガイド役を私に頼むことであったようだ。倉敷は大原美術館をはじめ美観地区での散策、コーヒータイム、昼食等と見学する場所や店が頭に入っているので苦労せずに案内でき、同僚から喜んでもらった。
 同僚たちの関心も人それぞれで、エル・グレコの作品に驚くA君、モネの水蓮が一番というB君、棟方の十大弟子(木版画)が素晴らしいと言う
Ⅽ君など各人各様であった。職場では一度も見せなかったもう一つの顔を倉敷で見るとは意外であった。他にも美観地区にある運河の中橋上で、観光そっち退けで、取り留めのない話題に花を咲かせたことが、今となっては懐かしい思い出である。

 これから紹介する素描画は、倉敷美観地区にある運河に架かった中橋を中心とし、周辺の建物を描いた作品である。出会いは都内の骨董市巡りを始めた4年目頃であったろうか。その日もいそいそと都内の骨董市に出かけた。私はいつものように始発に乗り、某神社に直行したが、すでに競争相手と思える人達が、思い思いに獲物を探し物色中であった。私はとりあえず、以前に絵をすすめられて買い求めた出店の方に急ぎ向かった。すると先客が店主と何やら紙筒のような物を手に取り商談中であった。出店の前に着くと、さすがに店主は私の顔を覚えていたようで挨拶してきた。私は紙筒が何か気になったが、店主の持場である二坪ほどのビニールシートに並べられた雑多なものに視線を移した。勿論、目ぼしい物がないか確認するためである。その日は隅々まで確認したが、これと言ったものは見つからなかった。そうこうしている間に、先客は交渉が不調に終わったとみえて、その場を離れて行った。私は透かさず店主から紙筒を受け取り、丸めてあった紙を広げてみた。すると、初めて目にする素描であった。しかも当時の私の目からは素晴らしい出来栄えに思え即決した記憶がある。素描は額もなく裸状態にしては、破れや汚れも見られず保存状態は普通以上であった。その頃は、見た物にすぐ手を出す時期を脱し、少しは見る眼が備わりつつあった時期と重なる。それでも素描(肉筆)を見るのは数少ない経験であったと思う。当時の私は、帰りの車中でも、額装をどうしようかなど考える余裕がでるほど気分よく帰宅した記憶がある。

        
        <中橋から見た倉敷風景>  38.0×54㎝ 

 肝心の素描に話をもどすと、驚くのは画面の隅々まで手抜きが見られず細密に几帳面に描かれていることである。作者の「佐藤章」は、倉敷美観地区で沢山の作品を描き残している。その中でも、私は中橋を中心とした構図のこの作品は、最高の出来栄えと考えている。佐藤は鉛筆B、木炭、パステル(主にグレー使用)、角棒コンテ(墨)を巧みに使い分け、画面に力強さや陰影を見事に表現することで、見る者を一瞬にして虜にしてしまうようだ。

 佐藤は著書の中で、「汐入川に白壁と風にゆれる柳を水面に映しながら・・・・ここを訪れる人々は、その詩情は日本人としての心を動かす、たたずまいであることを感ずるであろう。今残る白壁の土蔵は、当時の米蔵であり、繁栄のあとである。」と書いている。佐藤は全国を写生して巡った中でも、倉敷は特に思い入れが強かったと思われる。

 ところで、佐藤はどうして素描一本に絞り描き続けてきたのか理解できる言葉が残っている。それは著書のまえがきで書いているので紹介することにした。一部引用させてもらうと、「素描は米の飯ともいうべきもので、ぜいたくな料理がないときほど、日本人には米の味がよくわかるものであると、恩師鶴田吾郎先生から教えられもし、私自身も、素描画の持つその素朴で直截な白黒の表現力に惹かれ、今まで民家を描きつづけてきたわけです。これからも描きつづけるでしょう。」と書いており、数千点の古民家を描き残した佐藤だからこそ、その言葉に実感がり、重みもあると考えている。研究不足で確かなことは言えないが、当時の素描一本の画家は、佐藤以外には見当たらないと思っている。現在であれば、木下晋(1947~)が凄まじい細密さで対象物等を描き活躍中である。また、少し素描とはジャンルが異なるが、宮忠子(1931~)の水墨画とも少し違う、紙の上に墨で描く作品、斉藤隆(1943~)のモノクロームによる異形の人間像は素描に近いと考えている。

 因みに、作家の略歴紹介が後になったが、あまり詳しいことはわかっていない。資料によると、『1911年宮城県生まれ。太平洋美術学校卆。鶴田吾郎に師事。素描専門で活動を続け、戦前には、「河向う」素描展、「続河向う」素描展、「流れ」素描展、「裏町」素描展、などを開催。戦中は絵本「カリカレ」誌に3年間東京の工場地帯ならびに、裏町を素描で発表。主として機械工場で働く少年工を描く。戦後は「津軽」素描展、「山の民家」素描展、「飛騨の民家」素描展、「佐渡の漁村」素描展など日本民家を主に19回個展開催。没年は不詳。』とある。

 最後になったが、手元の素描の制作年や画題は不明である。資料によると、佐藤は1968年11月と1975年4月に二度倉敷を訪れていたことが確認できる。素描の樹木を確認すると、向かって右側の二本の大木は新芽と思える描き方をしていることから、1975年4月制作と推測した。一方、佐藤は多くの作品に、見たままの画題を付けているようなので、それに倣って、<中橋から見た倉敷風景>と付けてみた。果たして佐藤の付けた画題は何であったのか知りたいものである。
そういえば、1970年代中頃に倉敷を訪れた時、美観地区のお土産店で、佐藤の描いた素描(印刷画)が売られていた。作品は額装されて5千円ほどで売っていたことを最近になって思いだした。当時は絵の収集を始める前であったが、画風が気になり、その場で作者の名前を確認したことを覚えている。それから20年以上も過ぎてから、佐藤の素描(肉筆)に出合ったことに少なからず縁を感じている。

 余談であるが、自宅の収蔵室に眠っている作品のなかには、未だ日の目(?)を見ない作品もいくつかあ
るので、ぼちぼち部屋の大掃除から取り掛かろうと思始めたところである。

<参考資料>
日本の民家 素描お手本集(佐藤章著)