粋狂老人のアートコラム
       松戸市戸定歴史館で出会った版画家の作品たち・・・・・奥山儀八郎
       マッチのラベルから浮世絵の復刻まで手掛けた人物とは・・・・

 
 私は朝食をすますと新聞に目を通すのが日課となっている。その日も隅々まで目を通していたとき、地方版の記事に目が留まったことを記憶している。日付は定かでないが、今から10年ほど前の2月頃であったと思う。記事の内容は松戸市にある旧徳川昭武庭園(戸定邸庭園)の梅が見頃になったという紹介記事であった。私は庭園の名前を初めて目にし、念のため家族に尋ねると、家族も戸定邸庭園の名前は知らなかった。その場はそのままとなったが、数日してやはり気になり、家人と二人で出かけることにした。

 いざ現地に到着してみると、松戸市内の幹線道路から逸れて、100メートルほど上った緩やかな坂道の途中に目的の場所はあった。庭園全体が小高い丘に位置し、一歩園内に入ると、町中の喧騒から隔絶された別世界に迷い込んだような印象さえ受けた。記憶が定かでないが、庭園の入口を入ると、右側が旧徳川昭武邸、左側が松戸市戸定歴史館、中央の小道を進むと庭園が配置されていた。確か歴史館の入口に「奥山儀八郎展」の立て看板があったが、当時の目的は戸定邸と庭園であり、まず、庭園を散策した記憶がある。紅梅や白梅、名前の知らない大木など回遊式の道を回ると人気も少なく、静寂につつまれ町中とは思えない体験をさせて貰った。その後、戸定邸を見学し、部屋から芝生の庭を眺めたり、未だに現役の廊下の外側の古いガラス戸や欄間、釘隠し驚き、当時のままの風呂に時代劇の場面を思いだしたりしたことを憶えている。

         
          <野沢町から浅間山麓の農家>

 戸定邸を見学しそのまま帰ろうとしたが、冷やかし半分で奥山儀八郎展を観ることにした。私自身、奥山の名前も知らないし、画家なのかどうかさえわからなかった。それでも家人が「折角来たのだから入って見ようよ」の言葉に背中を押され入場することになった。展示室に入ると直ぐに版画家であることがわかった。入り口近くには日本毛織(現、ニッケ)のポスターや商品広告などの作品があり、さらに本の表紙、挿絵、浮世絵の版画復刻、コーヒー版画、その他もろもろの版画を制作していたことに驚愕した。展覧会を見ることなく素通りしていたら、折角の機会を逃すところであった。やはり億劫がらずに気になったことは行動することを学んだ思いである。

 その後、数年過ぎたころ奥山の版画作品に出合った。折角の機会なので、これも何かの縁とばかりに購入した記憶がある。奥山のオリジナルの作品はモノクロが多いが、手元の作品はカラーであったため一目で気に入った。作品には<野沢町から浅間山麓の農家>の画題があり、1954年作とある。図録によると、木版(多色摺)で彫師は前田健太郎であることが確認できた。構図は浅間山をバックにした茅葺の農家が目に付く、庭には一本の大木が配置され、手前には、田に水を引くための堀が画面左下から斜め右方向に見える。堀には丸太を組んだ簡易橋も渡してあるなど田舎の風情が感じられる。また、田には畔が確認でき、稲刈りも終えた初冬の晴れた日であろうか。仔細にみると、大木には一枚の葉もなく、樹形や木守柿らしき赤い実からみて柿の木と思われる。母屋の周りにもいくつかの物置小屋らしきものや洗濯物が確認できる。うっかり見落としたが、右下には道祖神であろうか石仏も確認できる。一方、空にはメルヘンチックな白い雲が配置されるなど長閑な田舎の風景が感じられる。私はいつも切れ味のよい作品に注目しているが、このように気が休まる作品にも心惹かれるものがある。

 最後に儀八郎を理解するうえで略歴は欠かせないので触れることにした。住み込みで働きながら版画を独習する。21年慶応義塾商業学校入学、翌年中退。24年大連の姉に招かれ半年滞在。帰京後、川端画学校でデッサンを学ぶ。28年第8回日本創作版画協会展に初入選。9月、東京丸の内の日本毛織(現:ニッケ)広告部嘱録によると、「1907年、山形県西村山郡寒河江町に生れる。20年単身上京し、託となり、版画ポスター制作を開始する。30年丸ビルのナップ(日本プロレタリア美術家同盟)のクロッキー研究所に通う。31年河野鷹思、山名文夫らとともに東京広告美術協会を結成する。32年ニッケを退社、フリー広告作家となる。翌年まで山名文夫と共同で仕事をする。34年広告版画展(銀座、伊東屋)。東北地方の冷害による飢饉の義捐金募集のポスター「凶作地を救え」を私費で制作。師と仰いだ上坂雅之助と決別する。暮れごろから日本珈琲飲用史の研究に着手。36年江戸・明治文化研究の泰斗、石井研堂に出合い、研堂唯一の弟子となる。その指導により日本の伝統版画に開眼し、版画制作の転機を迎える。40、年前川千帆、畦地梅太郎とともに新版画会に参加する。41年、原弘を通じて東方社より依頼され、リノリウム版画による謀略宣伝ポスターを制作。秋、彫師、摺師との共同作業による伝統的木版画制作を開始。43年日本版画奉公会の結成に参加し、理事となる。45年、終戦直後、日本版画研究所を創立。52年、1949年に着手した広重の東海道五十三次続絵の復刻版が完成するが、日本版画研究所は解散する。54年松戸市矢切に転居、工房を開設する。版画の技術者養成所設立を企画する。65年松戸市矢切の西蓮寺境内に伊藤佐千夫の文学碑建設に尽力。76年、銀座、ロイヤルサロンギンザで個展。81年10月1日死去、享年74歳」とある。

 余談であるが、松戸市教育委員会は、1999年に「創造と伝統の木版画家 奥山儀八郎展」を松戸市立博物館で開催しており、それらをきっかけにご子息の奥山義人氏(版画家)から1000点を超える儀八郎作品の寄贈を受けている。松戸市教育委員会は、その後も寄贈品に含まれていない作品について収集を進めているようで、手元の<野沢町から浅間山麓の農家>も、図録から購入作品であることがわかった。これらの事実からも、手元作品は収蔵に相応しい評価を得ているようだ。

 私は原稿を書き終えた時点で念のため画面を仔細に確認した。その結果、おかしなことに気が付いた。それは画面左下に「儀八郎 一九五四、一、一野沢町から」と刷られているが、欄外には鉛筆書きサインの後に「54.3」と書かれていた。勿論、私が画面から初冬と思ったことも間違いであるが、制作月が1月1日と刷り込んでいるのに、欄外のサインが3月とあるのは説明が付かない。この謎は今もって解明されていない。また、私は作品説明の中で雪のことを一言も触れていないが、制作月が1月であれば、母屋の屋根の白さは残雪の可能性も出てくる。一枚の木版画作品に振り回されることなど思いも寄らない体験をさせて貰った。作品鑑賞も一筋縄ではいかないと真剣に思い始めている。

<参考資料>
奥山儀八郎作品目録
「版画いっぱい薫る珈琲愛・・・奥山義人」2016年4月3日日本経済新聞(朝刊)文化欄掲載記事