粋狂老人のアートコラム
      気になる明治の凄腕写真師のことなど・・・・・江崎禮二
    「早取り写真師」と名乗り、新しいことに挑戦した男・・・

  私には何となく出かけることを躊躇っていた場所がある。他人からみたら、交通の便もよいのになぜなのと思うかも知れない。勿論、これと言った理由は見当たらない。このようなことは、誰しも一つや二つは思い当たるのではないだろうか。因みに、そこは両国の東京都江戸東京博物館のことである。ところが、そんな思いも何処へやら、ある日の新聞広告に「浮世絵から写真へ―視覚の文明開化―」展の情報を目にした瞬間、是非見てみたい思いが湧いてきた。それはメモ帳によると、2015年10月31日に東京都江戸東京博物館に出かけたメモ書きからもわかる。いざ出掛けてみると、同博物館は大江戸線両国駅の目の前に立地し、頗る交通の便がよいことがわかった。入館してみると、幕末から明治期の写真、浮世絵、泥絵、日本画など400点弱の展示に度肝を抜かれた記憶がある。

 展示品の中でとくに気になった展示物がいくつかある。その中から「江崎禮二」の写真を取り上げてみたい。江崎禮二と言っても、古い写真に興味がなければ、何のことかわからないので、手始めにどのような人物で、どんな実績を残したのか紹介することから始めたい。

 図録などの解説によると、江崎禮二は『1845年(弘化2年)美濃国厚見郡江崎村(現・岐阜市)生まれ。姓は塩谷、名は岩吉。後に出生地の地名をとり、江崎禮二と改める。舎密学(化学)を久世治作から学び、1870年(明治3年)に上京。大垣藩江戸屋敷で働きながら、柳川春三の「写真鏡図説」でコロディオン湿板法を独学、その後短期間、横浜で下岡蓮杖のもとでも写真術を学ぶ。1871年(明治4年)に東京芝で写真館を開業。翌1872年(明治5年)に浅草奥山に移転し、数年のうちに東京を代表する写真師の一人となる。感度が高く、露光時間が短くてすむ乾板を用い、1883年(明治16年)6月に隅田川で催された海軍の短艇競漕の模様や、水雷爆発実験で立ち上がる水柱の撮影に成功。その様子は「早取り写真」と呼ばれて新聞で報じられ、自らを「早取り写真師」と称するようになる。1884年、月食撮影。1887年、「写真術独習書」を出版。じっとしていないことから撮影が難しいとされていた小児を上手く撮影できることを宣伝するため1893年(明治26年)、3年間に写した1歳3ヶ月未満の小児1700人の顔をコラージュした写真を制作。同年10月に凌雲閣(浅草)で展示した写真は話題となり、販売され絵葉書にもなった。江崎は東京の名士となり、浅草の発展に尽力したことで区会議員、東京市議会議員、浅草銀行の頭取も務める。1910年(明治43年)6月23日没、享年65歳。』とある。なお、<1700人の赤ん坊(コラージュ写真)>は函館市中央図書館が所蔵し、他に川崎市市民ミュージアムでも<赤ん坊(コラージュ写真)>を所蔵していることがわかった。

 因みに、私が注目したのは、江崎撮影の写真<1700人の赤ん坊(コラージュ写真)>である。現在ならばいざ知らず、明治26年にこのようなコラージュ写真を思い付くとは驚きである。写真を前に赤ん坊を数えようとしたが、あまりの数の多さに途中で数えるのを諦めた記憶がある。写真師を調べれば、大概が江崎の早取り写真に辿り着くほど写真史の世界では認知されている事実である。
         
           参考資料  赤ん坊(注1)
 私の所蔵写真の中に数点の江崎禮二の写した写真がある。今回はその中で武士の家族を写したと思われる一枚を取り上げることにした。被写体は紋付の羽織袴姿の大人の男性2人と3歳から6歳程度の子供4人が一緒に写った写真である。座った姿勢の右端の男性は、髪の形から見て、髷を結っていると思われる。腰には脇差らしいものもが辛うじて写っていると思われる。また、大人2人と4人の子供の関係は不明であるが、推測するに、大人2人は兄弟と思われ、4人はそれぞれの子息とみてよいのではなかろうか。この写真が貴重であるのは、裏面に金地に「江崎禮二製、大日本東京 浅草公園地早取写真師」と表示されていることである。
      
              兄弟家族写真
 このことから、「早取り写真」と新聞に報じられた1883年(明治16年)以後に撮影されたことがわかり、かつ、実際に早取り写真師の名称を使用し営業していた事実も確認できた。ただ一つ不思議なのは、写真には女性の姿が写っていないことである。若しかして、当時の女性たちは「写真を撮られると魂が抜かれるとの噂」を信じ、写されることを避けたのであろうか。今から思うと実に滑稽な話のように思えるが、当事者は大真面目であったのだろう。

最後に江崎禮二を知るうえで参考になる記述を見つけたので紹介することにした。木下直之氏が「田本研造と明治の写真家たち(岩波書店 日本の写真家2)」の巻頭に載せている序文の一部に『斉藤月岑の「武江年表」によれば、1873年ごろの東京では、「求むる人あれば、即時にその像を写すの家」、すなわち写真屋が急増したという。なるほど1877年に出回った番付「東京写真見立競」には、実に116人の写真家が名を列ねている。浅草がそのメッカで、どの写真屋も観音詣での客を相手にした。浅草寺境内だけで、江崎禮二を筆頭に21軒の写真屋が軒を並べていた「(浅草新誌)1877年5月号」と書いていた。
         
             兄弟家族写真裏面
 さらに、「煉瓦造りの江崎は別として他はペンキ塗りの洋風擬い、三尺の入口に更紗の暖簾、左右は箱形の硝子張りへ見本の写真、はいるとすぐ人力車の蹴込みのようなリノリウムの敷いてある撮影場、古風な椅子の背後に、床屋の首当てのような横木がついて客の首をそれに当てて安定させる。江崎がひとり率先して速取り機械を用いたものの、他はすべて旧式一方、小児など撮す時は一層時間がかっかって大騒ぎ、ふり鼓をガラガラやって見せるやら、ラッパを吹いて賺(すか)すやら、客も技師も大骨折り。(明治世相百話、第一書房、1936年)」と当時の写真屋の実態を風刺気味に書いている点は大変興味深い。

 偶然に目にし、入手した一枚の古い写真から、見方を変えれば、その人物の活躍した時代の証拠を見付けることができる。高が一枚の写真と侮ることなかれ、一枚の中にも思わぬ事実が含まれていることを教えてくれた貴重な出会いであった。

注1、参考資料の「赤ん坊」は、「1700人の赤ん坊」ではなく、川崎市市民ミージアム所蔵の「赤ん坊(コラージュ写真)」のポストカード(コピー?)を使用。

<参考資料>
浮世絵から写真へ―視覚の文明開化―展図録
日本写真家事典    日本写真史(上・下)島原学著
田本研造と明治の写真家たち(岩波書店 日本の写真家2)