粋狂老人のアートコラム
      幕末から函館で活躍した写真師親子のこと・・・・田本研造・繁
      長崎から辺境の地であった函館まで赴いたのはなぜか・・・・

 
 函館の地名を目にすると、札幌在住の頃、何度か出かけてイカ刺しを食べ、観光を楽しんだ記憶が蘇ってくる。今思いだしても、函館山からの夜景、赤レンガ倉庫、教会、神戸と見紛う古い洋館など数えたらきりがない。勿論、他にも忘れてならない大切な場所がある。それは五稜郭や近隣の松前城である。
 書出しから函館のことを取り上げたが、今回は明治の初めに函館をはじめ道内で活躍した写真師に焦点を当ててみることにした。

 私は休日に骨董市に出かけるのが唯一の楽しみであった時期がある。その当時の目的は、気に入った絵を見つけることであった。骨董市会場で屡々目にしたのは、雑多な商品を並べている出店での光景である。いつものことであるが、数人の男たちが、段ボール箱を独り占めして、他人を寄せ付けない雰囲気で、箱の中身の絵葉書やら紙切れやら雑多なものを丁寧に確認している姿であった。ある時、邪魔しないように注意しながら、一人の客に何をしているのか尋ねると、小説家や画家などのハガキ、古い写真類を探していることを教えてくれた。それ以来、めぼしい絵が見つからないときなど、私も彼らの真似をして獲物を探すようになった。そんなことを長年続けていると、本来の収集目的でなかった古い写真が、いつの間にか集まってきた。今まで意味もなく、古ければ良い程度の軽い気持ちで集めていたため、撮影者の存在は蚊帳の外であった。その後、撮影者について調べ始めると、それなりに名のある写真師も多数含まれていることがわかった。

 今回はそれらの中から、「田本研造」と息子の「田本繁(養子)」について取り上げることにした。私にとって、収集目的もなく集まってきた写真の中に、親子の写した写真が含まれていたこと自体まさに奇跡のような出会いである。

 初めに田本研造を知ってもらうために略歴を紹介することにした。研造は「1832年4月8日、紀州牟婁郡神川村(現・熊野市)生まれ。別名、音無榕山(おとなしようざん)。54年長崎で蘭方医、吉雄圭斎の下僕となり、西洋科学の諸事情に触れる。59年長崎の通辞・松村喜四郎と箱館(69年より函館となる)にわたり、やがて右足に凍傷を負って脱疽(だっそ)となりロシア領事館医師ゼレンスキーの手術を受けて右足を切断することとなる。これが縁となりゼレンスキーの写真撮影の助手をつとめ湿板写真術を習得する。66年頃から写真師として活動を開始する。横山松三郎や木津幸吉とも研究しながら、人物や風景を撮るようになる。67年、木津幸吉と共に松前に赴き福山(松前)城と藩士たちを撮影する。68年から翌年の箱館戦争の際には、旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三らを撮影。69年、函館に写真場を開設。北海道で最初の写真場を64年に箱館で開設した木津幸吉が上京する際、写真機材一式を譲り受けたといわれる。71年北海道開拓の進捗状況を記録し中央に報告する必要を感じた開拓使から依頼され、高弟の井田侾吉を伴って8~9月に札幌や小樽などを撮影する。73年ウイーン万国博覧会に開拓使の写真が出品される。その後、開拓使の写真記録は、田本の門下から出た札幌の武林盛一らに引き継がれた。門下からは多数の有名写真師が輩出し、田本は北海道における指導的立場の写真師であった。1912年10月22日死去、享年81歳。」とある。研造は20代で右足を切断するなど、体と心に大きな痛手を負ったと思われるが、写真師として多くの後輩を指導し、活動したことは強靭な精神の持ち主であったのだろう。

             
               上見美恵子

 調べてみると、研造の撮影した写真は4枚所蔵していることがわかった。その中で一番古いのは、明治29年1月14日に撮影された上見美恵子を写した写真である。写真裏面には墨書きで撮影年月日と被写体の名前が確認できる。さらに、蔓バラで囲まれた丸の中には函館港、下部には北海道函館写真館 田本研造と印刷されている。写真の女性は年齢不詳ながら40代半ばと思える。日本髪を結った着物姿の女性が、椅子に腰かけ両手を組み、着物の裾を両側に開いた姿で写っている。興味深いのは、女性は正面でなく、斜め45度方向を見るように写真師から指示されたと思われる。そのため正面顔より好感度が上がっているようだ。仔細に見ると、椅子には肘掛がつき,簾のような飾り付けが見て取れる。右奥にはカバーかかった花台に鉢植えが確認でき、写真スタジオとして、それなりのお膳立てをしたと思われる。
 
 一方、息子の田本繁の撮影した写真も2枚手元に所蔵している。そのうちの1枚は、髪を結った縦縞の着物姿の少女像である。結った髪の先は長く伸ばしていると思われ、リボンで結わえているようだ。足元を見ると、下駄を履き、巾着と洋傘を右手で持ち、やはり斜め45度方向を向いているが、視線はカメラマンを向いている面白いポーズである。研造と違うのは、背景に外国の風景と思しき壁紙であろうか、それとタペストリーらしきものが写っている。裏面には、小川よし子 13歳と墨書きがある。写真の表には、北海道函館区末広町の表示が確認できるが、残念ながら撮影年月はどこにも書いていない。父研造が函館区会所町で写真館を営業していたことから、繁は場所を変えて営業していたことがわかる。

          
             小川よし子(13歳)

 歳のせいかうっかりして、繁の略歴を書くのを忘れるところであった。田本繁の略歴を紹介すると「1857年12月3日、紀州牟婁郡神上村(現・熊野市)に大谷増蔵の長男として生まれる。幼名は筆之助。明治初年、函館在住の田本研造には先妻との間に子供がいなかったため、同郷の筆之助を養子に迎え入れた。筆之助は函館に渡った後、1877年に江差で写真館を開業するが、1883年には函館区会所町の研造のもとに戻り、1888年5月「田本繁」と改名、7月には転籍する。先妻を亡くした研造は1891年に後妻をもらって長男胤男が誕生すると、写真館を胤男に継がせ、繁には別館を建てて独立させている。繁の田本繁写真館は1934年3月21日の「函館大火」で焼失したため、直ちに再建するが、繁は1935年6月20日に没、享年78歳。その後、                     
 長男の胤二が後を継ぎ、1941年頃まで営業を続けていたようである。」とある。私が略歴を見て感じるのは、繁は20歳の若さで独立し、江差で写真館を開設していることからして、物覚えがよく人並み以上の技術を身に付けていたと推測する。現にもう一枚の所蔵写真を見ると、大正4年1月に1歳の赤ん坊を撮影しているが、なかなかの出来栄えと思える。

 余談であるが、私は今まで映画やテレビドラマなどで、新選組が話題になると、関連雑誌が書店に並ぶ光景を目にしてきた。時には書店で雑誌を手に取り、頁を捲った記憶があるが、洋装の土方歳三の写真を見てもとくに気にすることはなかった。まさか、あの洋装姿の写真を田本研造が撮ったものとは全く気づかず迂闊であった。
迂闊ついでに紹介したいことがある。以前に観た「五姓田のすべて」展(神奈川県立歴史博物館)に松原三五郎と土方力三郎の2点の<土方歳三肖像画>が展示してあった。当時の私は、何の違和感もなく他の作品と同様気に留めることもなく見過ごしていたようだ。その後の調査で、田本研造が1868年に撮影した土方歳三の現存写真と瓜二つであることを確認し、写真を基に描かれたことがわかった次第である。

 このように見てくると、たった一枚の写真が撮影者の意図を離れ、後世の人たちに思わぬ楽しみ方を与えていることなど田本は知る由もなかったであろう。実にこの世の巡り合わせは面白い・・・・・・・。
 
<参考資料>
日本の写真家2 田本研造と明治の写真家たち(岩波書店)
日本写真家事典  幕末の北海道写真師 田本研造と熊野(岡本実著)
日本写真史(上・下)島原学著    五姓田のすべて展図録