粋狂老人のアートコラム
       この画家も描いていたライオンの絵・・・・・・小笠原豊涯
       草書体の解読は急がずじっくり攻めると糸口が・・・ 

 
 私は長年にわたり気になる画家の略歴を調べてきたが、調査の途中で動物を描いた絵も沢山目にしてきた。それらは牛・馬・山羊・鶏などの家畜と現在はペットとして飼われる犬・猫などであった。一方、数は少ないが、虎・狸・ライオンなどの絵も目にしている。因みに、ライオンを描いた画家について記憶しているので参考までに紹介することにしよう。一人目は、早田楽斎(1872~1946年)の≪空軍来(1929年作)>である。ライオンの描写は群を抜くリアルさとド迫力に圧倒される。現役であったなら一躍人気画家になっていたであろうことが容易に推測できる。二人目は大束昌可(1878~1945年)の<獅子の図(1915年作)>である。作品は夜明けの海に向かって獅子が咆吼する図である。そばにはつがいであろうか、雌ライオンも描かれている。早田ほどの迫力は感じられないが、大きな波に向かって吼えている姿を斜め後方からとらえた力作である。三人目は吉田博(1876~1950年)の<精華(1909年作)>である。この作品は岩に腰を下ろし、右手の人差し指で何やら指示している裸婦を百獣の王たちが伏せた状態で見ている構図と思われる。この作品からは、ライオンに対する恐怖感は全く無く、むしろ静粛な印象と取り合わせの妙に単純に驚いた記憶が残っている。四人目は佐竹徳(1897~1998年)の<仔獅子(1936年作)>である。二頭の雌ライオンを右側面からとらえた作品であるが、猛獣の猛々しさは感じられず、佐竹の人柄が投影されたのか、犬のような雰囲気さえ感じる作品である。

 ところで、ライオンが日本に初めてやってきたのはいつごろなのか調べてみた。資料によると、「明治35年(1902)1月2日に上野動物園に初めてやってきた。」とある。このことから早田、大束、吉田、佐竹の四人とも上野動物園でライオンを見たうえで作品を制作したものと思われる。因みに、佐竹徳の略年譜によると、1936年の欄に上野動物園で描いた<仔獅子>を出品とあったことからも私の考えが裏付けられたと思っている。そのため、江戸時代に描かれた猫顔の虎の図と異なり、いずれのライオンもリアルに表現されていることがわかる。

 私は手元に一枚の古そうな<獅子の図>を所蔵している。横長の板に描かれた作品で作者は不詳であった。絵の表には銘が無く、裏面に達筆な墨書きが確認できる。まず作者を特定しようと試みるが、敵もさる者、草書体の文字の解読は素人にとって難敵である。しばらく悪戦苦闘の末に作者の姓が小笠原と読めることがわかった。私が記憶している小笠原姓の画家は「小笠原倫太郎」のみである。そこで倫太郎の可能性を期待し調べを続けると、倫太郎は「豊涯」の雅号を使っていたことが判明した。あらためて裏面の草書体で書かれた文字を確認すると、いままで解読に苦労していたのが嘘のように「小笠原豊涯」と読めそうである。

      
            獅子の図     40.5×71.2㎝

 肝心の作品は、大束の作品とほぼ似たような構図であるが、違いは雄ライオン一頭だけ描いていることである。時間帯は夕暮れ時と思われ、ライオンは本来の毛並みの色が判別できないほど暗く、右側の大きな岩や地平線上空に夕焼けのかすかな余韻を表現したと思われる。一方、波間には数羽の海鳥も確認できるが、ライオンは海鳥には目もくれず、鋭い眼光で吼えている様子が見て取れる。さらに岩に当たって砕ける波しぶきが、ライオンの足元まで飛び散っている様子も描かれるなど、リアルさにおいても大束作品と遜色がないと考えている。

 豊涯については不明な点もあるが、略歴を紹介することにしよう。資料によると「1870年淡路島洲本(明治画学館名簿には、北海道日高とある)生まれ。本名は、倫太郎。89年以前に京都府画学校に入学し、田村宗立に師事。その後、加地為也に入門。91年第4回明治美術会展に出品。92年第5回明治美術会展に出品。96年頃には京都にあって肖像画を手掛けた。二十日会にもしばしば出席した。99年第5回新古美術展で一等褒状。1901年第7回新古美術展で二等褒状。関西美術会第1回批評会で二等賞。関西美術会第1回競技会展に出品。04年関西美術会第3回展に出品。05年関西美術院の発起人に名を連ねている。小井出蕉雨(日露戦争従軍記者)の「征露従軍紀年録」に浅井忠らと口絵を担当。07年に大阪時事新報社に勤務し大阪に移った。以後の活動状況は分かっていない。20年没、享年50歳。」とあり、没後は93年「明治・大正・昭和 近代美人画名作展」に作品展示(於:千葉そごう美術館)。99年「京都 洋画のあけぼの展」に作品展示(於:京都文化博物館)。2006年「浅井忠と関西美術院展」に作品展示(於:府中市美術館他巡回)、21年10月「発見された日本の風景展(於:京都国立近代美術館他巡回)」に作品展示の実績が確認できた。

 ところで、豊涯が大阪へ移ってからの活動状況が全くわかっていない。そもそも画家として生きてきた者が、生活のためとは言え、簡単に筆を折ることができるのであろうか。さらに大阪時事新報社ではどのような仕事をしていたのであろうか、などなど興味が尽きない。一般的に考えられるのは、新聞や雑誌の挿絵を担当していた可能性である。しかしながら、調査のなかで目にした資料は、どれも不詳となっている。専門家の方々をもってしてもわからないということには、今一つ納得できない思いが残る。素人考えであるが、当時の大阪時事新報社の雑誌を確認できれば、何か手掛かりがつかめるのではないかと一人思っている。

 これは素人考えであるが、私は豊涯が大阪時事新報社の仕事をしながら絵を描き続けていたと推測している。これまで多くの画家を調査した中で、画業だけでは生活が苦しい画家たちが、個展を開きながら、仕事以外に絵を描き続けた画家の存在を目にしてきた。
豊涯に関するこれまでの調査では、個展を開いた事実が見つかっておらず、寧ろ得意な肖像画の注文をこなしながら生活費の足しにしていたと考えるべきであろう。事実、人物描写の技量の高さを裏付けるような作品<日傘をさす少年>が、「発見された日本の風景展」に展示されている。まさに近年話題の迫真の写実画家たちの中にあっても、作品の出来栄えは一頭地を抜いた逸品と感じている。

<参考資料>
京都洋画の黎明期(黒田重太郎著)  京都洋画のあけぼの展図録
日展史  明治期美術展覧会出品目録  美術80年史(森口多里著)
浅井忠と関西美術院展図録  明治・大正・昭和 近代美人画名作展図録
みづゑ382号  佐竹徳展図録    発見された日本の風景展図録