粋狂老人のアートコラム
         風景専門と思えた画家の珍しい静物画に出合う・・・・・河合新蔵
         丸山晩霞をして「竹だけはどうしても河合君には適わない」と・・・

 
 私はこれまで河合新蔵の水彩画について、図録等を含め数十点は目にしてきたと思っている。それらの絵はすべて風景画であった。興味深いことに風景の中に人物を配した作品が多くを占めていることもわかってきた。ところが、私の調査不足もあるが、何故かこれまで河合の静物画を一度も目にしたことが無かった。そのため河合は絵の対象として、静物画を好まないのではないかと勝手に思い込んでいた。画家であれば、素人考えながら人物から静物、風景となんでも絵の対象にしてしまうと考えていたので意外であった。そんな折、河合の静物画を偶然目にし、買い求めることができ一人悦に入っている。

       
           静物(果物)   34.0×46.0㎝

 前置きはさて置き、私が初めて目にした静物画を紹介することにしよう。簡単に構図を説明すると、中央に果物を盛った持ち手のある竹籠を配置し、画面右側にはドイツビアジョッキが置かれている。籠の左上の大きな南瓜、南瓜の下部を取り囲むように左から葡萄と林檎を横に交互に配置し、最後に柿の順に描かれ果物であふれている。よく見ると葡萄は二種類と思われ、粒の濃いものと薄めのものが確認できる。籠に盛ることが出来なかった葡萄の房は、籠の左側やビアジョッキの右側にも確認できる。気になる光は左上方向から射していることが、葡萄、林檎、柿の光の描写からもわかりやすい。私はこの絵を見た瞬間、籠から飛び出しそうな南瓜の大きさが気になった。しかし、作者は葡萄の房を林檎の上に載せ、さらに南瓜の下部を葡萄の房で覆い、右側下部には濃い色の葡萄を配置するなど南瓜だけが目立つことを抑える工夫をしたと私は見ている。勿論、南瓜の存在感を抑えた色調が相乗効果を発揮しているのかもしれない。全体として、作品から受ける印象は、背景も含めた色のバランスを考えた対象物の配置が功を奏し、自然に見えるなど画家の感性が表れている逸品である。

 河合について調査している中で、静物画に関する新事実を見つけたので触れておくことにした。それは書棚の奥に忘れられていた「京都洋画の発展」展図録である。昭和40年11月3日―28日まで京都市美術館で開催された展覧会で181点の作品が展示されていた。展示した際のテーマは「明治以前洋風画」「明治初期東京系列作家」「京都洋画の発展」の三区分である。肝心の河合の作品は、京都洋画の発展コーナーに<静物><水郷緑陰(水彩)><船>の三点が展示されている。残念ながら図録に掲載された図版は31点と少なく、その中に河合の静物画が載っておらず、どのようなものであったか全く見当がつかない。ただし、水彩画の表示が無いため油彩であることはわかった。このことから、河合は少なくとも2点の静物画を描いていたことが確認できた。

 ところで、河合の活動履歴を調べる中で注目すべき情報にいつもの調査魔が覚醒してしまった。その情報とは、「明治43年に京都に移住してからの作者の後半生は、その輝かしい前半生とは対照的に、不遇であったと伝えられる。」という説明文である。とくに「輝かしい前半生」とは何かを是非調べてみたくなった。急ぎ書棚を漁ったところ、偶然に安永幸一著「山と水の画家 吉田博」に辿り着いた。私は以前に吉田博について調べた時に本を購入し読んでいたが、十年以上も前の事なので記憶が薄れていたようだ。早速ページをめくると、肝心の知りたい情報が見つかった。それらを一部引用すると、『12月4日、いよいよボストン・アート・クラブでの六人展の準備が万端整い、前夜祭の夜を迎えた。展覧会名は「吉田博・中川八郎・河合新蔵・鹿子木孟郎・満谷国四郎・丸山晩霞による日本水彩画展」。12月5日から15日までの会期である。吉田家に残されているこの時のカタログによれば、吉田博と中川八郎の連名による「序文」に続いて、丸山晩霞97点、河合新蔵88点、満谷国四郎36点、鹿子木孟郎41点、中川八郎12点、吉田博11点、合計285点のリストがあり、大展覧会である。この時に撮影された写真を見れば、ボストン・アート・クラブの壁面の上から下まで所狭しと絵が掛けられていて壮観である。』とあり、ここまでくると展覧会の結果を知りたくなった。引き続き引用すると、「入場者の多さもさる事ながら、その売上げのすさまじさには驚くばかりである。吉田家に残された博自身の正確な記録によれば、丸山晩霞は97点中の51点が売れ、1,615ドルを手にした。以下、河合新蔵は88点中の54点で1,640ドル、満谷国四郎は36点中の12点で525ドル、鹿子木孟郎は41点中の9点で360ドル、中川八郎は12点中の6点で235ドル、吉田博は11点中の9点で350ドルの成果である。285点中の約半分にあたる141点が売れ、六人の総額が4,725ドルに達する驚異的成功を収めたのである。」とあり、あらためて当時の無銘の青年画家たちの実力を顔間見た思いである。とくに吉田博の八割、河合の六割の売れ行きは「すごい」の一言しか言葉が浮かばない。
その後、2回目をボストンで開き、三回目をワシントンのコスモス・クラブでの開催予定が、作品が多く会場に飾りきれず、最初の一週間だけは大きな半円形の建物であるコーコロン・ギャラリ―での異例の開催となったようだ。圧巻なのは合計で226点中の188点が売れて、総額6,023ドルもの売り上げを記録したのである。安永氏もすさまじいばかりの快挙といわねばならないと書いている。

 一方、現在の六人の市場評価を見てみると、個人的に釈然としない思いが残る。同じ展覧会に出品した満谷や鹿子木が高い評価を得て、六割超の売り上げをした河合の評価は六人中で各段に低い評価をされている事実である。今後、再評価が待たれる画家と考えているのは私だけであろうか。

 この辺で河合の略歴を紹介しておこうと思う。河合は「1867年大阪生まれ。鈴木雷斎・神戸の前田吉彦に師事。上京し五姓田芳柳に入門。92年、小山正太郎の不同舎に学ぶ。1900年、満谷国四郎、丸山晩霞、鹿子木孟郎と共に渡米する。アメリカ各地で水彩個展を開催。01年、パリへ移り、アカデミー・ジュリアンに学ぶ。後、アカデミー・コラロッシでラファエル・コランに師事。04年、鹿子木孟郎と共に帰国。関西美術会展に出品。上京。太平洋画会会員となる。以後、13回出品。05年、太平洋画会研究所の落成・開所に伴い研究所委員:教授主任となる。06年、大下藤次郎と日本水彩画研究所を設立する。07年、東京勧業博覧会に入選。第1回文展に入選。09年、第3回文展で褒状を受ける。10年、京都に戻り、関西美術院教授(嘱託)となる。13年、丸山晩霞らと日本水彩画会を創立する。第7回文展で三等賞受賞。14年、第8回文展に入選。15年、京都で、無涯画会油絵展覧会を開催。18年、第15回太平洋画会展出品作が皇后宮職(三室戸主事)から買上げとなる。19年、本願寺の大谷尊由師と「東海道絵行脚」をする。26年、第1回聖徳太子奉賛美術展に出品。27年第8回帝展に入選。・以後15回帝展まで連続入選。34年大礼記念京都美術館展に出品。36年2月5日京都で没、享年68歳。37年、第33回太平洋画会展に満谷、近藤、宮地と遺作が展示される。」とある。

 最後に河合に対する評価を上げるような情報を見つけたので紹介したい。それは、林誠氏(当時、長野県信濃美術館主任学芸員)が「もうひとつの明治美術」展図録に、作家・作品解説の中で書いていた内容である。一部引用させてもらうと「その輝かしい前半生とは対照的に、不遇であったと伝えられる。そのためか、大下藤次郎・丸山晩霞らと比べ経歴も不明な点が多く、また作品についても制作年の明らかな基準作が極めて少ないこともあって、あまり知られていないのが現状である。しかしながら今回の出品作品、とりわけ<竹林><水辺>といった秀作は、間違いなくこの作者が水彩画の黄金時代を担った、繊細な感性と優れた技量の持ち主であったことを雄弁に語っている。決して奇をてらうことなく、真摯に自然と向き合うその瑞々しい感覚と、確かな技術に裏付けられた表現は、今日的価値観からも理解されやすいものである。」と解説している。さらに『後年、小山周次は「竹藪と水などの図がその得意の画境」であったといい(みづゑ374)、また渡米時以来の畏友・丸山晩霞は「竹だけはどうしても河合君には適わない」と漏らしたという(水彩画家丸山晩霞)』とあり、河合ファンとしては心強い味方を得た思いであった。

 私は今回、河合新蔵を取りあげてみて、そろそろ河合新蔵回顧展なる企画がどこかの美術館で計画され、実行に移されてもよい時期が来ているような気がした。私の拙文が関係者の目に留まり、そのきっかけになってくれれば嬉しいのだが・・・・

<参考資料>
日展史  もうひとつの明治美術展図録    明治期美術展覧会出品目録
浅井忠と関西美術院展図録  日本水彩画名作全集Ⅰ(明治)
河上左京と水彩画展図録  美術八十年史(森口多里著)
第1回聖徳太子奉賛美術展覧会図録洋画之部    太平洋美術会百年史
京都洋画の発展展図録    山と水の画家 吉田博(安永幸一著)
わの会の眼   画家たちの富士山展図録  発見された日本の風景展図録
芸術新潮1995年10月号(特集アメリカン・ドリームに賭けた日本人画家たち)