粋狂老人のアートコラム
          「死の舞踏橋」にいつもの気になる病が蠢く・・・漆原由次郎(木虫)
          ヨーロッパで日本の木版技術を広めた人物とは・・・・

 
 私も人並みに海外旅行をしているが、渡航先は近隣諸国に限られていたので、これまでヨーロッパへは一度も足を踏み入れてこなかった。ヨーロッパ旅行をしている友人たちの話によると、一時フランスやイタリヤがブームであったが、その後、スペインに、さらに東欧や中東に移って行ったような話を聞いたことがある。一方、私は学生の頃、山岳風景の綺麗なスイスにあこがれた時期がある。記憶が定かでないが、スイスの名勝を12枚のカラー版で制作したカレンダーを知人からいただいたことがきっかけである。どの写真一枚をとっても、国内では味わうことが出来ない風景に思えて、いつかは出かけてみたいと本気で考えた時期があった。

 見出しに使用した「死の舞踏橋」もスイス旅行さえしていれば、即座に思いだす観光地と思われる。私はスイスどころかヨーロッパに足を踏み入れたことがない有様で、最初は何のことやらちんぷんかんぷんであった。ところが、観光パンフなどによると、スイスの中央に位置した代表的な観光名所であることがわかった。城壁に囲まれた街の真ん中を流れるロイス川に架かるのが、ルツェルン最古の屋根付木造橋のシュプロイヤー橋とある。橋は要塞の一部として1407年から1408年に完成し、1600年代には橋中央部に礼拝堂が設置されている。また、礼拝堂をはさんだ南方側は1408年に建設され、北方側は19世紀初頭に再建されたとある。因みに橋の天井には、15世紀にカスパー・メグリンガーが描いた「死の舞踏」と呼ばれる67枚の絵が飾られていることから「死の舞踏橋」と呼ばれる所以であることがわかった。

 初っ端からスイスの話しになってしまったが、それには多少訳がある。実は家人に「取り掛かる」と言いつつ引き延ばしていた書庫整理にようやく重い腰を上げた。いざ作業を始めてみると、以前に買いだめしていた作者不詳作品の山(?)が出てきた。収集を始めた頃は、とりあえず気になる作品を購入し、あとで作者を調べればよいとの単純な発想であった。
今回は不詳作品の山の一枚の版画について取り上げてみようと思う。作品は木版画のため、作者は恐らく日本人であろうと推測していた。私は後日作者を調べるつもりが、他の作品の調査に忙殺されいつの間にか後回しになっていたようだ。
 ところが、たまたま時期を同じくして某版画家を調べている中で、資料の中に手元の版画と同じモチーフの作品を目にした。私は一瞬、この風景に見覚えがあると直感した。記憶を辿ると直ぐに手元の作者不詳作品の版画であることがわかった。急ぎ内容を見ると、作者は「漆原木虫」で、画題は<ルツェルンの死の舞踏橋(スイス>であることが確認できた。さらに面白いことに、漆原は「フランク・ウイリアム・ブラングィン」の原画を基に木版画を制作していた事実もわかった。今となって思えば、作者が誰かもわからず買い求めた作品が、急に価値のあるものに見えてくるから不思議である。心の奥に潜んでいた欲が顔をだしたのかもしれない。私は心を静め作品の画題を再び確認すると、「・・・死の舞踏橋」とあり、何故このような不吉な画題が付いているのか調べてみることにしたことが、書出しでスイスに触れることにしたいきさつである。

      
       ルツェルンの死の舞踏橋   38.0×53.0㎝     

 肝心の作品は、川に架かった屋根付きの木造橋をモチーフにしていることがわかる。橋に屋根が付いていること自体珍しい。作者は対岸の近い場所から橋を斜め方向から捉えているようだ。しかも、この構図の最大の決め手は、とんがり屋根や橋げたを間近で見て描いていることである。因みに、観光チラシなどの写真を見ると、橋と周辺を写しているため平凡な風景写真となっていることが多い。そのためそれらの写真と手元の版画の場所が同じ場所とは到底思えない。やはり画家の目線は凄いと感じざるを得ない。勿論、それだけではなく、木造のとんがり屋根や橋部分の年数を帯びた茶系の色彩の表現も一度目にすると記憶に残ることが、今回の私の体験からもわかった。勿論、他にも川面を描いた大胆な水の流れや橋上にいる三人の人物の配置、更には背景の建物や雲をぼやかして描くなどの画面を見るにつけ、原画を見たい衝動に駆られる。この作品で一箇所だけ理解していない点がある。それは小舟を漕ぐ男たちが、重厚な橋脚の近くに描かれていることである。素人考えであるが、小舟を配置することで画面に動きを与えたかったのではと勝手に解釈している。
 
 ここで、原画制作者のフランク・ブラングィンについて略歴を簡単に紹介しよう。ブラングインは「1867年ベルギーのブリュージェに生れる。両親は英国人。ド・グルーとジャン・フランソワ・ミレーの絵画の影響を受けて、サウス・ケンジントン美術学校に学ぶ。その後、ウイリアム・モリスの工房で働き、タピスリーの下絵を描く。90年ロイヤル・ソサエティ・オブ・ブリテッシュ・アーティスツの会員となる。93年シカゴ万国博覧会で金賞受賞。1905年ヴェネツィア・ビエンナーレで、英国室のインテリア・デインを手掛け、金賞受賞。06年、ロイヤル・アカデミー会員となる。09年夏目漱石著「それから」のなかに、ブラングインの画集が登場する。13年、この頃、漆原由次郎と出合い、ブラングインが原画を描き、漆原が彫りと摺りを行って木版画の共同制作が始まった。松方幸次郎との交友は、16年頃から始まったと思われる。当時山中商会ロンドン支店長であった岡田友次氏の紹介で知り合った。以後、松方は頻繁に彼のアトリエを訪れ、コレクションのための助言を受けた。二人は将来東京につくる予定の「共楽美術館」の大きな石膏模型を囲んで、色々に夢を語り合ったという。当初の計画は、ブラングィンのアトリエをそっくり日本に運んで、ヨーロッパの画家の生活を伝えるはずであった。20年フランスのレジオン・ドヌール・オフィシエ章。27年東京帝室博物館にて、ブラングイン寄贈のエッチング43点とリトグラフ7点が展示される。28年日本橋三越で「フランク・ブラングイン百画展覧会開催。56年6月11日没。」とある。

 紹介が後回しになったが、漆原木虫について略歴を紹介しよう。漆原は「1889年(注1)東京に生まれる。本名は由次郎。山中孝次郎門下の木版摺師。1909年(注2)審美書院の一員として、10年開催の日英博覧会で日本の木版画実演のため前年に渡英する。彫師とそりが合わず単身現地に残る。その後、30年間ロンドンとパリに滞在して多くの版画を作り、日本の伝統的な木版技術による作品は、イギリスのメアリー王女をはじめ首相のウィンストン・チャーチルやフランスの愛好家に好まれた。12年から19年までの7年間、大英博物館嘱託の表具師、版画修復師として同館で働く。13年、この頃、ブラングインと出会い木版画の共同制作が始まる。19年、ブラングイン原画、ビニョンによる詩画集「ブリュージュ」の木版画(彫、多色摺)を担当する。24年イギリスの画家フランク・ブラングィンに認められ、彼の画を木版にした自画、自刻、自摺の作品はヨーロッパでは暖かく迎えられ鑑賞された。28年ロンドン、ヴィクトリア・ストリート・ギャラリーで個展。40年第二次大戦勃発により帰国、その後も日本で版画を制作している。41年3月、日本橋三越個展、4月、大阪三越個展。42年、銀座、青樹社個展。日本での作品には、西洋で愛好家に特に評判であった風景にも匹敵する馬や花の静物が含まれている。漆原は外国人に木版を教え、戦後は米国に作品を送って、日本よりもむしろ外国で著名である。53年6月6日歿、享年64歳。54年12月、兼松画廊で遺作展。」とある。道理で国内の知名度が今一つ低い謎が略歴を知り氷解した思いである。

 私はフランク・ブラングィン展(於:国立西洋美術館)を見逃していたので、当時の展示品について、ほとんど承知していなかった。そのため手元の作品についても、作者特定の情報もなく、作者不詳のまま書庫に眠ることになったと考えている。その後、展覧会出品作の期待も込めて、図録を入手し内容を確認したが、所蔵作品は展示品に含まれていないことがわかった。これらの事実から、むしろ現存作品が少なく貴重なのではと勝手に思い始めている。

 注1,漆原由次郎の生年について1888年説もあるが、今回、私は近年使用されている1889年説を採用している。
 注2、漆原由次郎の渡英について、日英博覧会開催年の1910年説もあるが、前年渡英説を採用し1909年渡英としている。
<参考資料>
東京文化財研究所作成資料   ウィキペディア情報   
国立西洋美術館所蔵 松方コレクション展図録  美術八十年史(森口多里著)
フランク・ブラングィン展図録
あーと・わの会 第20回放談会資料(福井豊編 添付資料)