粋狂老人のアートコラム
          作者は不明ながら鼓や謡本の描写に心惹かれて・・・・筧敦良
          謎の画家作品との格闘の日日・・・一体作者は何者?

 
 私は以前に観た「川村清雄」展で、川村作以外の作品が展示されていることに気付き、その作品をじっくり鑑賞したことを思いだした。勿論、私にとって川村は好みの画家であり、当然のことながら時間をかけてじっくり観て回った。そのため満足して博物館を後にしたことを鮮明に記憶に残っている。実は川村作ではない作品は、川村門下の桜井忠剛の能面他を描いた作品であった。素人の眼には、師の川村清雄作と見紛う程の出来栄えであった。そのため注意していないと、川村作品として気付かないまま見過ごすところであった。私はそれ以来、能道具類を描いた古い作品に自然に注目するようになったと思っている。

               
           鼓のある静物   38.0×45.5㎝

最近、鼓を描いた古い絵に出合った。この絵を目にしたとき、即座に伊藤快彦か桜井忠剛のいずれかと直感した。しかし、残念ながら私の直感は見事に外れ、作品には「A、KAKEHI」と読めるサインがあり、全くの別人であった。一方、作者が誰であれ技量を感じる作風に調査魔の虫が反応し動き出した。

 因みに、桜井忠剛作品に興味を持ったとき、他にも能道具を描いた作者が存在するのか調べていた。手元の虎の巻(?)から制作年の古い順に列挙すると、桜井忠剛作<能面(明治中期~大正、尼崎市教育委員会蔵)>、同じく桜井忠剛作<能道具図(明治30年代 尼崎市総合文化センター寄託)>、同作<能面と貝合(明治30年代 星野画廊蔵)>、伊藤快彦作<能道具類(明治30年代 京都市立芸術大学芸術資料館蔵)>、鈴木一之亮<鼓の音(明治40年 第1回文展出品作)>、川村清雄作<花の宴(制作年不詳 笠間日動美術館蔵)>、北連蔵作<静物(鼓)(制作年不詳 旧山岡コレクション蔵)>などが確認できる。他にも時代は下がるが、坂本繁二郎の<能面と謡本(昭和21年作、同22年 新憲法実施並びに東京都美術館開館20周年記念現代美術展出品)>を手始めに、能道具関連の作品を好んで制作していたことが資料からもうかがえる。

すっかり忘れていたが、資料の余白に興味深いメモ書きが残っていた。石井柏亭が「日本絵画三代志」の中で、「明治二十年に開催された東京府の工芸品共進会出品作について・・・桜井忠剛の猿が黄色い布から手をかけて食物かなにかを取ろうとして居る図だとか、塚原律子の<流鏑馬>だとか、川村門下の諸作の手際のよいのに比べては、川上門下や学校出身の人達のものに遜色があって少し恥かしかったと松井(昇)が云って居た。尤も塚原や桜井のものには其の第三回内国勧業博覧会の場合と同じく、実は川村自身の手が多く働いて居たのであらう。」と書いていて、当時の噂になっていたことが読み取れて興味深い。

 ここで謎の作者作品について紹介しよう。作品にはサインの他に1925と書かれており、大正14年に制作されたことがわかる。私は当初、モチーフから明治期の作ではと考えたが、実際は時代が少し下がっていた。構図を見ると、鼓が最初に目に付く、鼓の右下には開いた能の謡本らしきものが存在感を発揮し、鼓の左側には菊花が備前焼の壺らしきものに活けてある。他にも左下方に扇子を描くなど能道具をバランスよく配置している。私は能について門外漢のため、謡本一つをとっても何が書いてあるのか解読できないが、その流れるような書体の見事さだけは私にもわかる。恐らく面相筆で書いたものと推測している。また、絵に近づいて見るまで気付かなかったが、マチエールがまるで岩肌のように堅牢で、古いのに画面には亀裂一つ見られない。私がこれまで蒐集した作品には見られない異質の画風であることに満足している。

 私なりに調べた結果、謎の作者は「筧敦良」に辿り着いた。しかしながら判明した略歴は必ずしも満足できるものではなかった。それでも筧敦良に対する情報提供を期待する立場としては、内容を公開することにした。判明した略歴は、「生没年不詳。生地不詳。1910年第13回白馬会展に<雪>出品。12年新潟中学校に勤務。「写生之友 尋常科第6学年用 藤五代策(東京女子高師)筧敦良(新潟中学)共編発行」。24年<風景>制作。25年<鼓>制作。26年大阪天王寺中学校に勤務。32年「新制用器画 第3巻訂正再版 平井富夫 筧敦良著 教育研究会発行」。33年「用器画の学習 文明堂発行。」と寂しい限りである。
 その後も諦めずに調査を続けたところ新たな事実も見つかった。27年2月1日発行の「中央美術」第135号第13巻第2号の個人消息欄に、「大阪天王寺中学の同氏はさきに未乾燥の油絵スケッチ板を挟む「特許板さし」を創案したるが其後益々好評を博しつつある由。」と掲載されていた。私は「特許板さし」を見たことがないので正確の事はわからないが、生乾きの板、キャンバスの間に入れて絵具が付かないようにしたと推測している。現在であれば、金属のキャンバス用クリップ(名前失念)のようなものがあり、私も使用している。

 筧は略歴から判明した情報を基に推測すると、画家としての活動の痕跡が白馬会展以外に見つからず、むしろ図画教師の傍ら用器画の研究に大阪で取り組んだとみている。考えが少し単純であるが、筧の複数の著書や「板さし」の特許取得からみても間違いなさそうだ。一方、私は勉強不足で「用器画」なる呼称を初めて知ることとなった。因みに、国語辞典によると、「コンパスなどの製図器具を使って、物体を幾何学的に正確に描く技法。また、その図形。」と説明があり、なるほどそういうことかと初めて内容を知る機会となった。

 その後も調査を続け、さらに新事実も見つけた。日本近代美術発達史「明治篇」(浦崎永錫著)によると、「東美校、図画師範科の設置」の章で、明治40年9月入学試験の上、左の者が、十月二日に入学を許可されたとあり、筧敦良を含め19名の名前が確認できた。嬉しいことに筧の出身地は徳島であることも分かった。ところが、東京美術学校卒業生名簿(大正13年11月)によると、同校図画師範科(明治43年3月)卒業生名簿には、同校に入学した19名のうち、筧を除く18名のみが確認できた。推測するに筧は何等かの理由で中途退学をしていたものと思われる。

 資料不足で筧の活動履歴が中途半端な状態であるが、天王寺中学に勤めていたことを考慮すると、関西地区での展覧会出品歴や個展開催の新事実発見の可能性に一縷の希望を持っている。しかしながら一人の力には限界があり、そこで、筧敦良本人やご遺族に関する情報を持っている方々の力を借りるほかないと考えている。これまでも、拙文を目にした多くの関係者の方々から様々な情報提供を受けている。実に有難いことと感謝している。

<参考資料>
維新の洋画家 川村清雄展図録      日本近代洋画への道展図録
京都 洋画のあけぼの展図録   日本絵画三代志(石井柏亭著)
中央美術(第135号第13巻第2号)   坂本繁二郎展図録
日本近代美術発達史「明治篇」(浦崎永錫著)