粋狂老人のアートコラム
          天保年間に平戸風景を描いた謎の絵師とは・・・・伝 川原慶賀
         「長崎系洋風画」から「阿蘭陀絵」に呼称を変える新発見では・・・・

 
 以前に山岡コレクションを観たときの感動は今でも忘れることはない。まさに私が追い求めている幕末から明治にかけての優れた作品が一堂に会した様は壮観であった。展示作品は180点ほどで、なんと驚くなかれ、うち150点程が山岡コレクションで占められていた。多数の展示作品の中で私が気になったのは、「長崎系洋風画」<異人館>である。展覧会図録には、青木茂氏が『「幻の」山岡コレクション』として、展示品全体について解説文を載せている。その中で「長崎系洋風画の<円窓>や<洋館>など中国趣味の溢れる作品群も生産地の問題を含め再検討が必要である。」と述べている。私はこのことから、長崎系洋風画の名称は仮称であって、後に続く研究者に更なる調査を委ねたのではと推測している。因みに青木氏が解説分で取り上げた<円窓>と<洋館>は、図録からも<異人図>と<異人館>の画題が付いて展示されたことがわかる。

 私はとくに<異人館>に注目している。作品はモノクロ図版のためかコントラストが際立ち、異国人の男女と子供(召使?)の周りは明るく、異国風の洒落た建物を取り囲むように庭木は暗く描かれている。建物の奥には帆船が見えることから湾内と思われる。また、犬の種類は不明であるが、ペットとして飼っているようだ。洋館は広めの玄関ポーチがあり、二階には、異国風の外開きの窓を造るなど当時としては最新の設計がされているようだ。忘れるところであったが、作品は紙に泥絵具で描かれていると説明にあった。

          
            長崎系洋風画<異人館>

 長崎系風景画と呼ばれている<異人館>については、三つの不明な点がある。一つ目は、作者が誰なのか。二つ目は、異国人はオランダ人なのかどこの国なのか。三つ目は、制作地はどこなのか。現時点では、私の知る限り、それらは何れも解明されていない。

 私の所蔵品の中にも、所謂、長崎系洋風画に該当する作品がある。この作品との出合は、山岡コレクション展を観た後で目にし、買い求めたお気に入りの逸品である。作者は不明であるが、子供を含む三人の異国人と犬の配置、玄関ポーチの造りや二階の外開き窓などの類似点から考えても、山岡コレクションの<異人館>と同じ作者が描いたと推測している。構図はほぼ画面左方下部に人物と犬、中央に変化のある樹木、さらに池(?)、右側に洋館を配置している。池の左岸にも洋館を配置するなど、いずれも異国風の建物である。材質は紙に描かれており、この作品も種類は泥絵具であろうか。古い作品にもかかわらず、鑑賞者に古さを感じさせない爽やかな印象さえ与えるのは何故であろうか。
 
     
        阿蘭陀絵<異人図>64.5×117.2㎝

 実はこの作品には、裏面に達筆な毛筆文字がある。墨で書かれており、私なりに種々解読を試みたが、所詮は無理なことであった。そこで古文書に詳しい専門家のⅯ氏に思い切って解読をお願いすることにした。Ⅿ氏とは一面識もないことから、無視されることもある程度覚悟していた。ところが、私の丁寧な依頼文がⅯ氏に通じたのか、私の危惧の念を払拭するように、数日後には回答が届いた。私は嬉しさのあまり思わず「やった」と叫んでいた。Ⅿ氏によると、「阿蘭陀絵」、「庚子五求之」であることがわかった。ここで蛇足を加えると、「オランダ絵」、「天保11年5月これを求める」と解読できそうである。

 当時の購入者が誰であろうと、天保11年には既に「阿蘭陀絵」という呼び名が存在していた事実に驚愕した。私はこの事実は新発見につながると直感した。素人が生意気なことを云うようであるが、この際、長崎系洋風画から阿蘭陀絵に呼称を変えることを提案したい気分である。

 そこで気になったのは、山岡コレクションの<異人館>などには、手元作品のような裏書があるかどうか知りたくなった。仮に「阿蘭陀絵」の裏書があれば、展示の際に「長崎系洋風画」でなく、「阿蘭陀絵」として紹介された可能性もあるが、実際のところは未確認のためわかっていない。

 ところで、作者についてであるが、「近代の美術41 19世紀日本の洋画(岩崎吉一編:至文堂刊)」によると、川原慶賀<平戸のオランダ商館(シーボルト「ニッポン」の挿絵)>、川原慶賀<オランダ商館>、<東蘭館内図>の3点の図版が掲載されている。3点のうち私が注目したのは、<平戸のオランダ商館>である。それは画面右側の洋館、松の大木、画面左岸の洋館など手元作品に類似点が見られることである。これらのことを考慮すると、手元作品は、制作地が長崎県平戸、画中の人物はオランダ人、作者は川原慶賀の可能性が浮上してくるが、早計であろうか。

     
       <参考図>川原慶賀<平戸のオランダ商館>

 最後に、川原慶賀について、参考までに簡単な略歴を紹介しよう。資料によると『1786年(天明6年)長崎生まれ。通称登与助。字は種美。父は香山と号した画家。父の知人の画家、石崎融思(1768~1846)に師事。1811年「出島出入絵師」となる。23年シーボルトが出島の商館医として着任。これが慶賀の画家としての生涯の運命を分ける重要な分岐点となった。25年(文政8年)シーボルトの助手として出島に迎えられた絵を好くするデ・フィレニューフェとの接触を通して、慶賀はいっそう西洋画法に習熟していったようである。慶賀の作品は、疑似洋風画から純粋な油彩画まで、かなりの幅を持っている。26年オランダ商館長ステュルレル江戸参府にシーボルトと共に随行。慶賀の写生技術については、シーボルトも「長崎の巧みなる画家にて特に植物の画に巧みなり」と認めている。28年シーボルト事件に際し、幕府より叱りを蒙った。33年に制作開始したシーボルトの代表的著書「日本(1854年刊行了)」に挿し絵を掲載されているが、確かに精緻な写実描写は出色のものである。42年にもオランダ人の求めに応じて禁に触れる絵を描き、同年「江戸および長崎所払い」を申し渡され、その活動もここで終わっている。ただし、46年には長崎に戻っていた形跡(長崎 、野母観音寺天井落款)を遺している。以後、息子田口盧谷の版刻する銅版画や大和屋版の木版画の下絵を描くなど、画家の仕事を続けている。没年は不明。』とある。慶賀が受けた罰の背景には、徳川幕府による厳しい鎖国政策の一環として、外国人への情報漏洩を厳しく取り締まった状況が読み取れる。慶賀も禁に触れない範囲で画業を続けていれば、多くの作品が国内にも残っていたと思われるだけに残念である。

 一方、興味深い事実もある。「長崎・出島」展図録に小林忠氏が「オランダ人の目で日本人が描いた幕末の風俗」のテーマで次の一文がある。一部引用すると『「出島絵師 登与助」こと川原慶賀は(1786~?)、思えば不思議な画家である。鎖国の江戸時代に活躍しながら、現在、その作品のほとんどは海外、それもオランダ、ドイツ、イギリス、ソ連などヨーロッパの諸国に伝わっており、日本にはごくわずかしか残されていないからである。』と述べており、さらに「今日から回顧すれば、西欧社会の日本理解に果たした川原慶賀の役割は、きわめて大きなものがあったと評価されるのである。」とも紹介するなど、昭和61年当時すでに慶賀の功績を評価していたことがわかりほっとした気分である。

 余談であるが、阿蘭陀絵と出合ってから何とか作者を突き止めようと調査を続けてきた。その間には、すがる思いで複数の専門家と言われる人たちに照会状も出させてもらった。懇切丁寧にアドバイスされる関係者がおられる一方で、複数の専門家たちはことごとく私のお願いを無視した。これが日本の美術に携わる人たちの現状かもしれないと思い諦めた。結局、時間をかけ独力で資料収集を続け、ようやくここまで辿り着いた経緯がある。

 呟き・・・・「私が彼らと同じ立場であったなら、どのように対応したであろうか、」人としての度量がためされていたかも・・・・

<参考資料>
日本近代洋画への道展図録   長崎・出島展図録  川原慶賀展図録
近代の美術41 19世紀日本の洋画(岩崎吉一編)  
亜欧堂田善とその系譜展図録