粋狂老人のアートコラム
          不思議な名前の絵師に素早く反応して・・・・・初代五姓田芳柳
          作品を一度でも目にし、記憶していれば判読も容易に・・・・

 
 私は絵画の蒐集を始めてから、これまで草書体の判読に相当てこずってきた。それは基本通りの書体でさえ読めないのに、書く人により、文字に癖が加わることが大きな要因と思われる。しかも、私を含め大方の日本人は学生時代に草書体を学ぶ機会がなかったと記憶している。そのため一部の古文書研究者、骨董鑑定人や書家などを除けば、私同様に判読の素養を身に付けていないのが現状であると思っている。

 最初に草書体の判読の難しい事例を紹介しよう。実は私の手元に、「芳栖五徃田甫寫」と読めそうな軸装された古い肖像画がある。作品の流通過程で誰が読み方を間違えたか知らないが、私の手元に届くまで間違った状態であった。正しくは「芳柳五姓田甫寫」である。間違いの発端は、「柳」を「栖」と読み間違えたことが事の始まりと推測できる。少なくとも明治期の画家に関心のある人たちであれば、「芳柳」の名前を見れば直ぐに「五姓田」に結び付くはずである。「芳栖」と読んでしまっては、「五姓田」には到底結びつかない。さらに悪いことに、「姓」を「徃」と読んでいるため、「五姓田」に辿り着くことはできなかったのであろう。

 それでは草書体の判読を難しいと思っている私がどうして判読できたのか、前にもコラムで触れているが、展覧会における鑑賞の仕方にあると実感している。私流鑑賞術の一端を種明しすると、「展覧会会場で気になる作品は、最低2回はその場に戻り、作品の隅々まで確認すること、その後も図録で時々確認する」ことで作品の記憶をとどめることにある。       

            
           <男性像>  90.3×40.3㎝

 因みに五姓田芳柳(初代)については、2008年に神奈川県立歴史博物館で開催された「五姓田のすべて」展を観ている。展示は数百点に及ぶ五姓田一門の作品が、これでもかという感じで展示されていた。その時、私が注目したのは、五姓田一門当主の五姓田芳柳(初代)であった。私は当時、画家が雅号を年代により変えることを知っていたが、雅号を変えずに名前の順序を変えることに着目した。そのため、展示品の明治12年作では「五姓田芳柳寫」、同13年~16年作では「芳柳五姓田甫寫」、明治18年~19年作では「五姓田芳柳寫」、明治20年作では「五姓田柳翁寫」などの作品展示場所を行ったり来たりしながら鑑賞した記憶がある。銘以外には制作年月やモデルの名前、落款が確認でき、芳柳(初代)に関心のある者にとっては、重要な情報源であると感じた。一方、初代芳柳作であることはわかった。しかしながら銘の最後に書かれた「甫」については未だ解明されていない。そこで私は次のような解釈を試みた。まず「甫」を国語辞典で調べると「男子の美称」とあった。これでは何のことかわからず「美称」を調べると、「ほめていう呼び方」とあった。このことから芳柳が作品の出来栄えが良かったので、自分自身をほめて、銘の後に甫を書き加えたと推理してみた。そこであらためて図録を確認すると、銘に甫を書き加えた肖像画は、理由はともかく明治13年~16年制作に限られることも分かった。

 ところで、肝心の作品は、絹本着色された軸装の人物像である。作品には「皇紀弐千五百四十三年三月念六日(注、2) 芳柳五姓田甫寫」と墨書きがあり、1881(明治16)年に描かれた作品である。この作品は展覧会で観た明治16年作の人物像と制作年の書き方や雅号の書き方、落款も一緒であった。勿論、作風も図録で確認した結果、同一人物が描いたと思える特長が随所に確認できた。一方、芳柳の年譜によると、「1882(明治15)年、浅草公園の自宅にて、肖像画の注文生産を請け負う光彩舎をおこす。」とあり、手元の人物像は前年に自宅(浅草公園)で制作されたと思われる。

 人物像は140年近く経過していることもあり、全体にシミも見られるが、肝心の人物はシミもなく綺麗な状態で、今描き上がったと見紛う程である。モデルは男性で、羽織袴姿で正座し、斜め45度の左方向を見ている。右手で扇子の先端部分を握り、右膝の上に立てているポーズを画家がとらせたものと思われる。仔細に見ると、左手は袴の中に入れ、見逃していたが、濃紺と思える羽織と同系色の座布団に座っていた。羽織には家紋が描かれるなど肖像画の約束事を守っているようだ。説明が重複するが、肖像を描くときの小道具として、人物に扇子を持たせる工夫も見て取れる。「五姓田のすべて」展に15点程の羽織袴姿の男性像が展示されていたが、うち4人の男性にも右手に扇子を持たせていた。おそらく身動きせずにじっとしていることに不慣れなモデルに安心感を与える心遣いであったのだろう。最後に顔を見ると、口の周りの髭のそり後やほうれい線、鼻、口元などの陰影の描写は生き人形のように生々しい。髪も多く、額も広めの顔立ちで、意志の強そうな50代と思われる男性像を瞳の入れ方一つで表現したと感じている。

 やはり芳柳の略歴は欠かせないので簡単に紹介することにした。資料によると、「1827年2月1日、江戸赤坂紀州藩邸に藩士浅田冨五郎の子として生まれる。幼名岩吉。33年元佐竹藩士本田庄兵衛の養子となり、源治郎と改名。41年この頃、歌川国芳に学ぶ、後、諸国遊歴。48年江戸に戻る。のちに久留米藩士森田弥左衛門の養子となり、その娘の勢子を妻とする。55年芳柳、勢子夫妻の次男として義松生まれる。56年に長女渡邉幽香が生まれる。57年藩士をやめ、市中で暮らす。60年横浜に赴き外国人と交わる。医師セメンズのもとで初めて油絵を見て、これをきっかけに横浜絵を発想する。68年森田弥平治から五姓田芳柳と改名し。東京府平民となる。このころ芝三田小山町東光寺前に居住か、その後、義松を追って横浜に移住。69年勢子と離縁し、勢子の養子松井豊子を後妻にする。73年弟子たちと浅草奥山に移る。赤坂御所にて明治天皇肖像を描く。74年入谷田圃に転居。宮内省より、天皇陛下御寿像の制作を命じられる。義松らと、浅草奥山で油画興業を行う。76年陸軍病馬厩に勤める。77年西南戦争の傷病者の図画制作のため大阪臨時病院に派遣される。11月帰京し、もとの病馬厩雇に復職。78年浅草公園に転居。82年浅草公園の自宅で、肖像画の注文生産を請け負う光彩舎をおこす。84年浅草奥山にある江崎禮二の支店を出張所として使用する。87年二世芳柳に芳柳号を譲り、柳翁と号する。高崎市にあった春霞館をアトリエにして、肖像画の注文制作に応じる。約一年間滞在し、その後米沢を経て、宮城県白石に赴く。90年1月、義松と渡米。4月、義松と別れ単独帰国。92年2月1日歿。享年66歳。」とある。

 最後に芳柳の肖像画についてわかりやすい説明文があるので紹介したい。「五姓田のすべて」展図録に鍵岡正謹氏が、『五姓田流肖像画は、五姓田芳柳が創始した。絹地に従来の画材や水性絵具で、西洋画風に陰影やぼかしを効かせて、風俗画や人物画を写実した洋風画で、とりわけ肖像画は一様式となる。写真を利用し「写真画」とも「隅絵」とも自称、明治期に横浜で流行し「横浜絵」と呼ばれ、俗に「絹絵」「絹こすり絵」と呼ばれた。』と解説されており、あらためて芳柳の作品を前にし、なるほどそう云うことかと納得した次第である。

 他にも「写真画」について興味深い記述がみつかった。「浮世絵から写真へ」展図録の中の「海外土産になった写真画」の章で、「既成の日本画の人物像に、外国人の写真を模した顔を当てはめて描き、海外への日本土産となった絵。写真画と呼ばれる。創始者は芳柳で、これらも芳柳がその周辺で制作されたと思われる。」と説明があり、展覧会場で初めて目にした時の印象が、人物の全体像に比し顔が小さく感じた違和感の理由がわかった。

 さらに付け加えると、「写真師と絵師の共同作業」の章では、以前にコラムで取り上げた江崎禮二(写真師)と芳柳は協力して、写真を利用した肖像画の制作を請け負っていたとあり、画家としてだけでなく、商売人としての一面も感じられる。共同作業の実態は、浅草公園地内ちノ二号に居を構えていた芳柳が、向島小梅村の三囲神社の裏手(向島小梅村89番地)に引っ越したため、そこが不便な場所であることから、浅草奥山の江崎禮二の支店を出張所とし、芳柳はそこに通い、肖像画を頼む人で写真のない人は江崎が撮影し、その費用については芳柳が負担したとあり、太っ腹な芳柳の一面を見た気がした。因みに当時の東京の写真師の撮影料金は、手札判料金が鈴木真一の一円に次いで七十五銭と高額であった。一般庶民には、おいそれと頼めなかったと思われる。

 余談であるが、これまで多くの画家たちの略歴に接する機会を得たが、芳柳ほど何度も養子を経験した画家は珍しく初めてである。同展図録には青木茂氏が、「幼より五家の姓を冒(おか)し来りしをもて自ら五姓田と称せり。」と関根金四郎「浮世絵画人伝」(明治32年5月、萩原新陽館)の記述を紹介していたので、五姓田の姓を使い始めた理由がわかり、心のもやもやも晴れた思いである。

注1、芳柳の養子の件については、違う説もあるが、「五姓田のすべて」展図録の関連年表を主に参考にし、略歴を紹介している。
注2、制作年月日が「皇紀二千五百四十三年三月念六日」と読めるが、日付の前の「念」は二十の俗称。廿(にじゅう)の代用字のため「26日」のことである。
<参考資料>
五姓田のすべて展図録    明治の宮廷画家 五姓田義松展図録
没後100年 五姓田義松(最後の天才)展図録  
美術八十年史(森口多里著)  日本近代美術発達史「明治篇」(浦崎永錫著)
生誕150年 二世 五姓田芳柳展図録   浮世絵から写真へ展図録