粋狂老人のアートコラム
          「念ずれば花開く」、今回はこの言葉を実感・・・・・川村清雄
           諦めずに気長に出合を待つのも収集のこつかも?

  今回は以前に体験した一寸嬉しい話について紹介しようと思う。これは私にとっても、にわかに信じがたいが実際にあった話である。私は常日頃から、めぼしい作家の作品について注意を怠らないようにしてきた。勿論、当初はそんなことを続けても意味があるのか疑問に感じたが、その度に気を取り直して図録の確認作業を続けてきた。そんな或る日のこと、どこか見覚えのある作品に偶然であった。これも私の気になる画家の調査による情報収集と記憶力の相乗効果が生みだしたことと受け止めている。

 見覚えのある作品とは、板に銀地(銀箔を貼ったもの)の上から油彩で描かれた静物画のことである。最初に目に付いたのは、今にも動き出しそうな蟹の描写に目を奪われたことであった。とくに赤みをおびた両足、さらには迷いのない一筆で描いたような白いはさみの描写に思わず引き込まれた。蟹の種類は一見して沢蟹のようでもあるが、本当のところ種類はわからない。蟹の上部には蓮の葉、左上には露草の鮮やかな青い花、さらに蟹の左右上部には茎付の青みをおびた白系の小さな花が確認できる。これらは前からその場所に存在したかのように自然で作意が感じられない。問題なのは、蟹の下部に配置された丸みがかった焦げ茶系のものである。これが何を描いたのか全く見当がつかない。

一方、資料を引用すると、『蟹は川村清雄得意のモチーフで、その作例は多く、木村駿吉氏の稿本もこれに触れている。「画伯は風景画にも静物画にも活物を添えて描かれ、その為に画に一層の賑やかさを加えるが、これら活物の図は永年かかって1ずつ、研究して手に入れたのである。例えば蟹は澤山飼で種々の姿勢をスケッチに取る。中には二疋で喧嘩した儘死ぬのもある。死んでから後乾かして置き、スケッチと記憶とでその後種々の画に応用する。」川村清雄 作品と其人物(注1)如何にも生動する本図の蟹たちは、実はひからびた蟹であるのかも知れない。』とあり、さらに『西洋の伝統的な概念における「静物」とは死物であり、川村が駆使した「活物を添えて描かれ」る静物表現には、極めて東洋的な事物現象の方式がある。そもそも日本美術に「静物」なる概念があっただろうか。』と解説しており、人知れず努力を重ねた川村の作画姿勢に共感を覚えると同時に作者特定の際に参考になった。

そういえば、日本画家の上村淳之氏(1933~)が、作画の為に本格的に取り組んでいたことを思いだした。私の記憶では、自宅に唳禽荘(れいきんそう)を設け、多種類の鳥の飼育をし、常日頃から鳥の生態を観察し、作品に生かしているような内容の記事であった。当時の私は、画家が“そこまでするか”と驚いたことを覚えている。私はそれまで、動物園で飼育中の動物や博物館の剥製を写生しているものとばかり思っていた。しかしながら、幾人かの画家は自分なりに色んな工夫をし、制作に生かしていることを初めて知り、これまでの考えが根底から覆された記憶が残っている。

         
           <蟹と露草>  27.2×24.2㎝

 紹介が前後してしまったが、説明を加えると、作品は作者不詳の特価品を私が購入したものである。私は初め半信半疑であったが、その場で直ぐに「川村清雄」の作品とわかり、興奮状態で購入した記憶が鮮明に残っている。私は長年積み上げてきた川村の情報から、一目で川村の真筆と判断した。勿論、重要な判断要素である銘は、草書体の「可はむら(縦書き)」の銘と「花押」も確認できた。残念なのは、銘の右側に達筆な文字があるが、これが判読不能でお手上げである。他にも裏板に川村以外の人物が書いたと思われる墨書きで、「画題<かにと〇〇>川村清雄先生写 一九六一年四月六日 長谷川(?)仁」とあるが、解読が出来ずに悔しい思いをしている。一方、額の裏板を開けると、初めて目にする丁寧な造りに驚いた。裏板と額は和紙でのり付けしてあったようで、その痕跡も残っている。額裏全体に経年による汚れや古色が見られるが、額にはガラスがはめてあるため、作品は状態が良く、大切に扱われてきたことを物語っているようだ。

 この辺で川村の略歴を紹介することにしよう。関係資料によると、川村は『1852年幕臣の子として江戸麹町に生れる。59年絵師住吉内記に入門。61年大阪で田能村直入に、江戸で田安家絵師春木南溟についた。63年開成所画学局にて川上冬崖、宮本三平、高橋由一から西洋画を学ぶ。69年徳川家達にともない静岡に移住。71年徳川宗家の給費生となり渡米。73年渡仏。ジャック・ギオーに師事。私費残留後、紙幣寮官費留学生となり、76年イタリアに移る。ヴェネツィア美術学校入学。学年末試験で準2等賞受賞、翌年には学年末試験で1等賞受賞。81年帰国。勝海舟邸に帰国報告。82年印刷局彫刻技手となるも11月辞職。83年勝海舟を通じて徳川家代々の肖像依頼を受ける。この頃、勝海舟より「時童」の号をもらう。85年画室華画房と名付ける。88年この頃、勝海舟邸に住み込む。89年明治美術会評議員。以後、第4回展、創立10年記念展に出品。94年勝海舟邸を離れる。98年この頃、山内邸内に転居。99年以降<形見の直垂>制作。1902年本多錦吉郎らと巴会(トモヱ会)を結成。以後8回まで開催され自然消滅。07年東京勧業博覧会西洋画部委員に委嘱される。10年第8回太平洋画会に出品、以後9回、10回展に出品。23年関東大震災により個人所蔵などのかなりの作品が焼失。25年聖徳記念絵画館の壁画<振天府>の制作依頼を受け奉納(31年)。27年画業回顧展(於:上野美術協会)開催。34年9月5日天理市で没、享年82歳。』とある。

私が図録などの年譜を調べていて、これまで見逃していた事実に気付いた。川村は73年に、「海外留学生に対する政府からの帰国命令」が出されたにもかかわらず、私費で残留を決めていたことである。貧乏してでも自分の意志を貫こうとする武士の心意気を垣間見た思いである。さすがに81年の印刷局の帰国命令を受けた際は、渡航の目的もある程度果たしたとの思いからか、帰国を決断したのかもしれない。

 今回、コラム原稿を書き終えたところで、川村作品との最初の出合は何時であったのか気になり振り返ってみた。おおよその見当をつけて、藝林月報ファイルを捲ると、1996年(平成8年)NO.132号で川村を取り上げており、私の記憶通り梅野隆氏の画廊(藝林)であった。梅野氏によると、作品は「JAAオークションで成り行き売りであったが、熟慮のうえ二枚札の入札をし、上値の111,900円で落札した」と書いていた。当時と違い現在であれば、この価格で落札することは、まず不可能なほど人気が上昇している。因みに梅野氏は数年前に静岡県立美術館で川村清雄展が開催されたことにも触れていた。梅野氏であれば当然のごとく図録を入手していたものと思われる。私も梅野氏の影響を受け、俄然、川村に興味を持ち、図録を買い求めた覚えがある。その後、2007年西荻窪の佐藤昭夫邸を会員有志と訪問し、100点のコレクションを拝見する機会を得た。その中に川村作品も1点含まれており、絶好の機会を逃す手はないと夢中で観察(?)させてもらった。さらに、2012年に川村清雄展(於:東京都江戸東京博物館)を観る機会があり、心躍る思いで館内を何度も回って鑑賞できたことは記憶に新しい。勿論、当時から図録は手抜きすることなく、隅々まで目をとおすことは既に実行していた。その後、何度か川村作品に出合ったが、私の手が届く金額ではなく、その都度諦めた苦い思い出でが蘇ってくる。今回ようやく積年の望みが叶い、これまでのうっぷんも少しは和らいだと思っている。

 最後に予期せぬ嬉しいニュースがあるので紹介しよう。私は今回ばかりは、画題だけでも知りたい強い思いから、知人も巻き込んで「かにと〇〇」の判読に挑戦してみた。しかしながら、結果はまったく歯が立たず惨敗であった。そこで、最後の切り札であるⅯ氏の力を借りることを思い付いた。何処の誰ともわからない人物からの判読依頼は、迷惑この上無い話であることは承知の上でお願いすることにした。予想したことであるが、依頼状投函後、二週間を経ても何の音沙汰もなく、自宅の郵便受けを毎日確認する日々が続いた。私のお願いは無視されたのではと半分諦めかけたころ、待ちに待った封書が届いた。開封するのももどかしく、中身を取り出し確認するときの高揚感は、今思いだしても適当な言葉が思いつかない。Ⅿ氏は私の依頼状に「露草」と赤いボールペン書きをして送り返してくれた。これで待望の知りたかった画題「蟹と露草」に辿り着くことができ大いに満足している。

 注意1、木村駿吉著 「川村清雄 作品と其人物」私家版 大正15年刊

<参考資料>
川村清雄展図録   近代日本美術家列伝  近代日本絵画志(石井柏亭著) 
維新の洋画家 川村清雄展図録   もうひとつの明治美術展図録
静岡県の美術風土記(金原宏行著)   美術80年史(森口多里著)
明治期美術展覧会出品目録  藝林月報NO.132号 
発見された日本の風景展図録   京都洋画の黎明期(黒田重太郎著)   
資生堂ギャラリー七十五年史   リアルのゆくえ展図録