粋狂老人のアートコラム
          “童心の画家”といわれた作者のデッサンに出合う・・・・鈴木信太郎
          心を研ぎ澄ませていれば、おのずと出合が訪れる・・・

  今回取り上げる作品は、雑多な作品の山の中から見付けたデッサン画の話である。おそらく大半は素人の作品で占められ、その中にこのデッサンが紛れていた。作品の山は二十点ほどと思われ、大半が油彩で残りは水彩とデッサンであった。私は収集を始めたころ、その道の先輩から教えられた言葉を今でも愚直に守り続けている。それは獲物を前にして、「決して手を抜くな」と教えられたことである。私は教えを守り、一点一点手に取り丁寧に確認したが、これといってめぼしいものはなさそうだと諦めかけて、最後の一枚を手にしたとき、一瞬、鳥肌が立った記憶がある。それは静物を描いた一枚のデッサンであった。木炭で描かれ、その迫力に圧倒されたというのが本当の気持ちである。大半が稚拙で魅力のない作品ばかりを観た後だけに、私の心に強いインパクトを与えたことは確かであった。

        
          静物(人形) 49.8×39.7㎝

 作品には「昭和十三年 信太郎」のサインが確認でき、即座に鈴木信太郎と工藤信太郎のいずれかの可能性を思い浮かべた。その理由は、額縁が初見のもので特に額の裏面の洗練されたデザインに、若しかしたら八咫屋の額ではとの思いが過ったからである。しかし、私の思いとは裏腹に八咫屋のシールはどこにも見つからなかった。一方、額は元額と思われ、日曜画家が使用するような
代物ではなく、プロの画家の拘りが見て取れたことから工藤と鈴木の二人の候補を選んでみた。作者候補の一人の工藤信太郎については、春陽会展の受賞作や女性像などを資料で目にしているが、よく見かける一般的な写実画の域を出ない記憶が残っており、これと云った特徴が無かったことから除外した。
一方、鈴木信太郎といえば、子供が描いたような絵の印象を以前から持っていた。しかしながら、その後、何度か実物を間近で拝見する機会があり、じっくり鑑賞すると、とても子供の力が及ぶ技量ではないことがわかった。素人の眼から観ても、配色の妙、物の配置などいつの間にか作風に取り込まれてしまう不思議な魅力があるようだ。因みに写真家の秋山庄太郎氏も「現代日本の作家たち」の中で鈴木信太郎の作品に触れ、「先生の画風は終始一貫、ほのぼのとしたぬくもりが漂う。いつどこに飾られても和やかな雰囲気を醸し出す絵である。」と書かれており、短文の中にその道を究めたプロの眼を感じた次第である。

 私の見立ては少し唐突過ぎると思うかも知れないが、このデッサンは紛れもない鈴木信太郎の作品であると極めた。鈴木は資料によると、大方の作品に「S.Suzuki」のサインを見かけるが、1929年と1938年の作品の一部には漢字でサインしていることがわかった。しかも嬉しいことに、1938(昭和13)年作の<芍薬>のサインは「昭和十三年 鈴木信太郎」とあるではないか。まさに同じ制作年の作品に書かれた銘が、手元のデッサンに書かれた文字に酷似していた。特に人偏をやや上に書く「信」や「太」の漢字は、当時の鈴木の癖を如実に現わしている点が重要な決め手となった。勿論、デッサンの画面に登場する人形や果物、椅子などは鈴木の作品によく採用されること。さらに、それらは物などの本来のサイズに拘らないことが、鈴木の作品の特徴の一つであることを重要視した。

 前置きが長くなってしまったが、ここで作品を紹介することにしよう。御覧のとおり、まず目に入るのが椅子に置かれた日本人形である。人形はオカッパ髪で振り袖の着物を着ているようだ。椅子は外国製と思われる重厚な革張り(?)と思われる。左側にはテーブルクロスをかけた食卓の一部が見え、食卓の端には巨大な一個のリンゴが画面全体のバランスを取っているかのような存在感がある。リンゴの奥には観葉植物の一部と思われる葉のようなものが見える。ところで、私が作品鑑賞の際に拘る光線の描写はどうであろうか。デッサンは室内で描いたため、リンゴは左上から光が射しているが、人形は左手前の上方向からと複数の光源が室内にあることがわかる。私は以前に鈴木作品を制作年代順に調べて分かったことがある。それは静物画に限っていえることは、余白を取らずに画面全体に物を配置することを意識している点である。手元のデッサンにもその共通点が見られる。理屈はともかくとして、私はこの力強い描写に釘付けである。それだけで十分満足している。

 この辺で鈴木の略歴を紹介することにしたい。資料によると、『1895年東京八王子生まれ。1910年赤坂溜池の白馬会洋画研究所に入所。13年八王子の府立織染学校選科入学。後上京し、染織図案家滝沢邦行に師事。15年第2回日本水彩画会展に初入選、以後、第4回展にも入選。16年第10回文展に初入選。21年八王子に帰郷、善生寺(日野)に寄寓、油絵の制作に専念。22年第9回二科展に初入選。以後、石井柏亭に師事。25年鈴木金平の紹介で「中村彝画室倶楽部」に入会する。26年第13回二科展で樗牛賞受賞。以後二科展に40回展まで連続出品。27年柘榴社第1回展開催。34年第21回二科展で推奨を受賞。36年第23回二科展で二科会会員となる。44年五日市に疎開。50年武蔵野美術大学教授就任(1965年3月まで)。53年多摩美術大学教授就任(1956年3月まで)。54年「阿蘭陀まんざい(東峰書房)」を出版。55年二科会を退会し、一陽会を野間仁根らと結成。第1回展に出品、以後、第35回展迄連続出品。58年第1回日展に招待出品。60年日本芸術院賞を受賞。第3回日展に招待出品。69年日本芸術会員となる。87年文化功労者として顕彰される。89年5月13日歿、享年93歳。』とある。なお個展歴については三越、高島屋、銀座松屋、そごう、銀座和光など多数のため開催年次など省略している。また、装幀も宇野千代、丹羽文雄、尾崎士郎を初め多くの作家作品を手掛けているが、あまりにも数が多いので今回は省略している。略歴を調べて感じたのは、二科展、一陽会展ともに一度も休むことなく連続出品していたことは、鈴木の人柄もさることながら驚きであった。

 最後に田中穣氏(美術評論家)が遺作展図録に「その“人と作品”の魅力の秘密」のテーマで鈴木信太郎の画業などを解説されている中に興味深い箇所があるので紹介したい。一部を引用させてもらうと、「私はある機会にたまたま鈴木さんの絵について、ふと思いがけぬ発見をしたことがあった。それはたいていの鈴木作品が、作者の低い視点から対象が見られ、描かれていることであった。ちょうど、全盛時代の映画界の名匠小津安二郎作品の小市民生活の哀感を描く魅力の重要な要素の一つに、人物の動きを畳に座った人間の目の高さでとらえつづけるカメラの、ロー・アングルの操作があったようにだ。小津作品のカメラの目と同じ低い作者の視点によって描かれた鈴木作品に、だからこそ童心にかよう世界が生まれている、という発見であった。」と書いており、鈴木作品の鑑賞する際に参考にすることで、さらに理解が増すのではないだろうか。

独り言・・・・デッサンを入手してしばらくした頃、そういえば本画は存在するのかどうか気になりだした。人間の欲望にはきりがないようで、一つのことが解決すると、さらに次のことが気になりだす不思議な生き物であることを実感している。
<参考資料>
鈴木信太郎遺作展図録      月刊美術1986 NO。129
第一回一陽会美術展覧会図録・目録    鈴木信太郎自選展図録
近代日本水彩画150年史