粋狂老人のアートコラム
          “日露戦争従軍画家の珍しい水墨スケッチ画のこと・・・・佐久間文吾
          日露戦争写真画報(時局画譜)の掲載画図版原画か・・・・

  戦後生まれの老人にとって、日清戦争や日露戦争のことなど教科書で学んだ以外の知識を持ち合わせていない。それでもこれまでに物故作家の回顧展や画集、図録などで時折、当時の戦争画を目にした記憶がある。日清戦争関連では、浅井忠作<樋口大尉小児を扶くる図(1895年 第7回明治美術会展出品>、<旅順戦後の捜索(1895年第4回内国勧業博覧会出品)>に強い印象が残っている。また、山本芳翠作<明治二十七八年戦地記録図 宮内庁三の丸尚蔵館蔵)>について、従軍した芳翠が現地で制作したのでなく、帰国後にスケッチを基に再構成したのではないかとの説があり、当時、展覧会場で説明文を読みながら興味深く観た覚えがある。他にも石田益敏作<狙撃之図>は1895年、「第4回内国勧業博覧会出品作<人物>」の可能性があると言われている。一人の兵士が土塁に寄りかかり銃を構え、もう一人の兵士は、そばに屈みこんでいる二人の後ろ姿を緊張感漂う描写で纏めた80号程の大作である。

 一方、日露戦争関連では、東城鉦太郎が有名であろう。まず記憶にあるのは<三笠艦橋の図(1926年財団法人三笠保存会蔵)>である。場面は日本海海戦においてZ旗を掲揚した直後の連合艦隊旗艦三笠艦橋の情景を描いたものと資料に説明がある。この絵に描かれた人物は東郷平八郎をはじめ実在した人物で、全員の氏名もわかっている。興味深いのは、描かれた人物が誰一人画家を見ておらず、役割に相応しい動きを表現した点である。この絵は日露戦争終戦後20年ほど経過後に描かれており、当時の関係者に三笠艦橋の様子を教えて貰わなければ描けない作品と考えている。他に佐久間文吾作<開戦後のロシア兵救助(1904年)>や<我が工兵魚雷を冒して金洲城門を破壊す(1904年)>も忘れてはならない。また、都鳥英喜も1904年兵役に召集され、旅順の攻撃に参加している。1905年には兵役が免除され、同年には京都に帰り、<戦線の哨兵(1905年)><苦戦の後(1906年)><占領(1907年)><家郷のたより(1907年)>を制作している。さらに1906年には戦地で遭遇した情景を記憶を辿りながら「出征記念画帳下絵」として描き残している。実際、展覧会で実物を観たが、<野戦病院><豪を掘る><豪の中の進軍>などを目の前にすると、下絵とは思えない当時の臨場感が伝わってきた記憶が残っている。

 ところで、私の所蔵品の中にも明治期の戦争画を描いた作品がある。これが何と珍しく墨で描かれており、一目で気に入り買い求めた逸品である。絵には制作年等は見当たらないが、描かれている日本人兵士の帽子や服装から見て明治時代と判断した。素人でもこの場面は、日清戦争か日露戦争のいずれかであることくらいは想像がつく。私がこれまで目にした数人の画家たちは、鉛筆か鉛筆に水彩などで描いていた。しかし、手元の絵は水墨で描かれている。しかも画面を見ると、墨の濃淡の使い分けが自然で思わず画面に釘付けになる。構図を見ると、砲弾が着弾し爆発した瞬間と思われ、左端の兵士が左手を挙げて後ろにのけ反り、そばに爆風で吹っ飛んだ机や甕の破片が飛び切り、その足元には目を見開き両手を挙げて倒れた兵士が描かれている。後方には両手で顔面を覆いながら下を向き、右隣では腕に白い腕章をした衛生兵らしき兵隊が左ひざを地面につき応援を呼んでいる瞬間を切り取ったとみている。左端の兵士の周りには割れた壺や破片が描かれ、兵士の周りは爆発による土煙が立ち込め、右奥にも複数の兵士の姿が確認できる。右下部には皿らしきものが敷物の上に確認でき、すぐそばには倒れている兵士の下半身が見えるなど戦場の生々しさが伝わってくる。画面から読み解くのは難しいが、推測するに前線基地の建物(簡易)に爆弾が着弾した瞬間を描いたと思われる。墨だけでこれだけの迫真の描写ができるのは、やはり只者ではないと感じる。

     
       前線基地着弾爆発図(日露戦争) 18×28㎝

 ここで最も関心のある作者に触れることにするが、実は出合のときから「佐久間文吾」とわかっていた。その理由は、以前に佐久間作品と出合った折、作者に関する知識が乏しく迷っている間に他人に買われてしまった苦い経験があった。そこで一念発起し、その悔しさを佐久間の略歴調査で解消しようと頑張った記憶がある。

 因みに、森口多里著「美術八十年史」の「6日露戦争と画壇」の章に次のような内容の記述がある。参考までに紹介すると、『タブローとしての戦争画には優れたものが割合に少なく、明治37年の第三回太平洋画会展に戦争画だけの一室を設け、満谷国四郎、石井柏亭、庄野宗之助、小杉未醒等の作品二十点が出陳され、小杉は従軍の結果なる<戦友>其他を出したが、柏亭は後年これを回想して、「よくあんな不真面目なことをやったものだと、今思ひ出して恥しい」と云った。』と書いている。不真面目な作品とはどんなものか図版を見ると、戦場で負傷した兵士に他の兵士が水筒の水を飲ませる場面を描いた作品のようであるが、平和な時代を生きてきた私には、何が恥ずかしいのか理解できない。参考までに四人の第三回太平洋画会展出品作の中から戦争画に該当するものを調べてみた。満谷は<軍人の妻(福富太郎コレクション)、石井は<砲撃>、庄野は<露営>、小杉は<露国負傷兵の苦鳴>などが該当すると思われる。

 一方、森口は肝心の佐久間に関し、日露戦争と画壇の章で一言も触れておらず期待外れであった。それでも私の調査では、1904年(明治37年)蔚山沖海戦(うるさんおきかいせん)に関連し、<開戦後のロシア兵救助(墨絵)>を制作。同年7月、日露戦争写真画報第四巻の時局画譜に<我が工兵雷雨を冒して金州城門を破壊す>、同年8月、日露戦争写真画報第五巻の時局画譜に<鳴呼海門艦>の図版が掲載されており、従軍した可能性が高いとみている。

 佐久間の略歴について、不明な部分もあるが判明している履歴について紹介しよう。資料によると、「1868年福島県生まれ。82年この頃から本多錦吉郎の画塾彰技堂で学ぶ。その後、不同舎で小山正太郎に師事。87年東京府工芸品共進会に出品。89年明治美術会結成に参加。明治美術会第一回展に<豊年>他出品。90年第一回西洋画展覧会に出品。第三回内国勧業博覧会に<和気清麻呂奏神教之図>他を出品し、<和気清麻呂奏神教之図>で妙技三等賞受賞。明治美術会第二回展に<晴浦>他を出品。91年明治美術会第三回展に<閑江>出品。93年明治美術会第五回展に<大阪落城>出品。95年1月、「太陽」第1号(博文堂発行)の表紙「戦勝の元日(木版)」を制作。96年この年の9月から10月にかけて黒田清輝邸を頻繁に訪問。白馬会の結成に参加する。しかし同会への出品実績はない。1904年<開戦後のロシア兵救助>制作。「日露戦争写真画報第四巻の時局画譜」に<我が工兵雷雨を冒して金洲城門を破壊す>掲載される。「日露戦争写真画報第五巻(博文館発行)の時局画譜」に<鳴呼海門艦>掲載される。40年没、享年72歳。」とある。近年では、2003年「もうひとつの明治美術展」に作品展示。09年「日本近代洋画への道 山岡コレクションを中心に展」に作品展示されたことが確認できる。

 佐久間の略歴を見て気づくように、二つの謎が残る。一つは、明治美術会会員であった佐久間が白馬会結成に参加したにもかかわらず、白馬会展に一度も作品の出品をしなかった点である。黒田清輝日記によると、佐久間は白馬会結成の頃、頻繁に黒田邸を訪問したことが記されている。黒田らの白馬会結成に賛同し、自らも会員となったのに何故、作品を出品しなかったのか不思議である。その理由を探したが、私の調査では見つけることが出来なかった。明治美術会への義理立てか? 二つ目は、活動が確認できる明治37年から昭和15年に亡くなるまでの36年間の長きにわたり活動状況が空白である点である。この長い期間に佐久間は何をして過ごしていたのか・・・・
私が調べた限り、どの資料にもこれらのことは触れていない。その道のプロの調査に首をかしげたくなるのは私だけであろうか。
 
 最後に作品に関する私の推理の真似事を紹介しよう。今回取り上げた作品「前線基地着弾爆発図(日露戦争)」について、これまでの調査の結果、日露戦争写真画報の「時局画譜」に掲載された図版(原画)の可能性を期待している。その根拠は蔚山沖海戦に関係した<開戦後のロシア兵救助>と同じ墨で描かれ、当時使用したサインも同じと判断したことが理由である。ただ残念ながら現在までのところ、時局画譜で確認はできていない。それらのことに思いを馳せると、なぜか特別の愛着が湧いてくるようだ。

 
<参考資料>
浅井忠展図録    五姓田のすべて展図録     都鳥英喜展図録
山本芳翠の世界展図録   美術八十年史(森口多里著) 満谷国四郎展図録