粋狂老人のアートコラム
          “初見のサインに違和感を持つも作品が気に入り・・・・青山義雄
          102歳まで現役を続け、青山ブルーと呼ばれた画家・・・

 

 1932(昭和7)年とある室内風景を描いた作品の話しである。私は出合った一瞬で落ち着いた室内風景の虜になってしまったようだ。上手く表現できないが、何しろ絵が醸し出す部屋の雰囲気が堪らなく好きである。勿論、絵には作者のサインも「y.Aoyama」とあり、青山義雄以外に該当する画家を思い付かない。しかしながら、私の記憶では、青山の使用したサインは活字体であったと覚えていた。筆記体のサインは初めて目にしたため、本当に青山の作品なのか疑問に思ったことが違和感の始まりであった。

 私はとにかく絵を気に入っているので、作者の事は後回しにして、青山の作品と仮定して話をすすめてみよう。青山は資料によると、1932年当時はパリに滞在中である。そうなると絵のモチーフとした部屋は、青山が借りていたパリ市内のアパートの可能性が高いと思われる。因みに青山は、21年パリの日本人会の館に住み始める。25年に南フランスのカーニュに引っ越し、26年ニースのシャルル・フェリクス広場のアパート4階に引っ越し、さらに28年にパリに再びアトリエを持ち、35年帰国するまでパリに滞在していたことがわかっている。

 私はそこで絵の中からパリ市内のアパートの室内風景である痕跡(最初、証拠も考えたが大袈裟なので)を見付けてみようと試みた。まず絵の構図であるが、部屋はこぢんまりとした広さのようで、洒落た飾りの木製の収納ケースが目に入り、その上には持ち手のついた白系の花瓶に花が飾ってある。視線はそのまま後ろの明るい壁面に誘導される。理由はカーテンのある窓ガラス越しに外光が壁面や飾ってある絵に射しているためと思われる。一方、右側の白い柱のような物は、近づいて確認するとストーブの煙突であることがわかった。ストーブにはケトル(?)が置かれ、お湯を沸かしているのであろうか。周りに溶け込んでいるため、気付くのが遅れたが、収納ケースの左側には見るからに安定感のある電気スタンドが配置され、あらためて見直すと古色のついた見事な描写が目を引く。左側下部にはソファーの一部が描かれ、ソファーには赤系のクッションも確認できる。一方、私の気になる光の描写はどうであろうか。さすがに抜かりはなさそうである。先に触れたが、壁面、額の陰、収納ケースの陰影、さらに床との隙間など室内にある物はすべて陰影をつけていることがわかった。目立たないが、ストーブの後ろにも名称不明の木製のワゴンのようなものが見える。他にも窓ガラス越しに白っぽい柱のような物や植木と思われるものが描かれている。これらが混然一体となって、一つの雰囲気を醸し出していると感じている。

         

         パリ・アパートの室内(仮題) 53.2×45.7㎝
この辺で私がパリのアパート室内と推測したいくつかの理由に話を戻そう。一つは左側に描かれたガラス窓である。恐らく当時、日本の一般家庭では見られない上下にスライドする窓と推測したこと。二つ目は、ストーブの形が日本製とは異なること、もしかしてゴダン・ストーブかも。ソファーとクッションも気になるが、最も有力なのは持ち手の付いた白系の花瓶である。実は閑にまかせて青山義雄展図録の図版を一つ一つ丁寧に調べてみた。すると、驚くことに、27年制作の<壺と牛の玩具>、34年制作の<チューリップのある静物>に描かれた花瓶と同じものであることが確認できた。これで作者の在仏中の作品であることに一歩近づいたことを実感した。

 室内風景はパリのアパートであるとわかったところで、次は肝心の作者について調査を進めることにした。まず手始めに、違和感を持ったサインを図録で調べてみた。するといままで青山のサインは、活字体だけと思い込んでいたのは間違いである事実に気が付いた。確かにこれまで目にした青山の多くの作品は、活字体のサインに限られていた。ところが図録の図版を調べるうちに25年制作の<湖のほとり>、同年作の<アトリエ>、さらに33年作の<自画像(デッサン)>のサインが筆記体で、手元の作品に酷似していることを見付け一安心したことを覚えている。
私はこれだけでは満足せずに、手元作品の制作年である32年前後の画風も調べることにした。すると、30年頃制作の<K婦人肖像>や33年制作の<ピアニスト、ジルマルシェクス像>の画風(具象による静謐な)に共通点があると感じた。他にも青山作品には、制作年代により多少異なるが、初期作には画面のどこかに赤系絵具を使っていることに気がついた。手元の作品では、その役目を赤系のクッションが果たしている。一番効果がわかりやすいのは、木下雅子肖像(通常はK夫人肖像)に描かれた夫人の右側に見える赤系表紙の書籍である。夫人は刺繍のある幅広の白い襟と白い袖口にも同じ刺繍が目に付く黒系のワンピース姿を、中年女性の内面にまで踏み込んだ描写が印象的である。まさに黒系の洋装夫人が、椅子に腰かけた側に赤系の小さな一冊の書籍の配置は効果てきめんである。私はこれらの情報を踏まえて青山の作品とした経緯がある。

 私は今回初めて青山作品を取り上げるにあたり、略歴を調査中に永地秀太(1873~1942)の指導を受けていた事実を知り驚いた。それは誰もが知っている青山ブルーとまで評される作品からは想像できないからである。それはそうとして、この辺で青山の略歴を紹介しよう。青山は「1894年神奈川県横須賀生まれ。父の転勤で鳥羽(三重県)、北海道根室で幼年時代を過ごす。1906年根室商業学校入学。08年同学校中退。10年上京、11年日本水彩画会研究所に入所し、大下藤次郎に師事、同年大下が没すると、永地秀太の指導を受ける。13年根室に戻り、小学校代用教員ほか色んな仕事をしながら作品制作を続ける。その間、渡欧への希望捨てがたく、21年渡仏する。パリでは、アカデミー・ランソン、ついでグラン・ショーミエールでデッサンを学び、日本人会の書記として、館に住み込み働くようになった。同年サロン・ドートンヌに初入選、翌年にも入選した。25年、喀血のため、医師のすすめで南仏カーニュに転居。26年ニースの画廊に委託していた自作が、アンリ・マティスの眼に留まり、その色彩表現を賞賛され、そのことが機縁となり、その後マティスに作品の批評を受けるようになった。27年、マティスを介して福島繁太郎を知り、その後福島から物心にわたる援助を受けることになった。青山はフランスで制作を続けるかたわら、28年の第6回春陽会展から出品し、34年の第12回展まで出品を続け、会員となっていたが、同年に同会を退会した。また、同年には、和田三造の紹介により、商工省の嘱託となり、ヨーロッパ各地の工芸事情を視察した。その結果報告のため35年帰国。36年には、梅原龍三郎の誘いを受け、国画会会員となった。37年には、第1回佐分賞を受賞。39年第2回新文展で審査員となる。52年渡仏し、ニースに住むマティスに再会、カーニュにアトリエを建て制作を続けた。57年には、63歳で運転免許を取得し、ヨーロッパ各地を取材旅行するようになった。その後も、88年神奈川県立近代美術館で個展開催。89年に帰国するまで、日仏間を往復しながら作品制作を続け、国内では個展において新作を発表している93年、中村彝賞受賞、同年には茨城県近代美術館で中村彝賞受賞記念としての回顧展開催。96年10月9日茅ヶ崎市で没、享年102歳。」とある。簡単にまとめようと思ったが、いつの間にか青山の略歴を紹介したい思いが強くなり深入りしてしまった。

 最後に少し長くなったが、私の好きな「秋山庄太郎の現代日本の作家たち(月刊美術 1988 NO.148)に取り上げた青山義雄について紹介しよう。紹介文によると『1974年に催された先生の個展に、アラン・ボスケ氏がフジタ以外にも一人独創性を持った日本人画家青山義雄をフランス絵画史に載せなくては手落ちだという序文を書いている。1979年「南仏を描く青山義雄展」には先生自身の短い文章が載せられているだけである。生涯の画学生は結局習作で終始する以上には望めない。それでいいのだ。苦しいが慰めも十二分にある。少しでも深いものを求めて探求の努力を続けたい。と書かれている。―途中略― 撮影のためお邪魔した。驚いたことに九十三歳になられたというのに「よかったら逆立ちでもしましょうか」と仰言る。万一を慮ってそのポーズは撮らなかったが、卒寿を超えて尚毎朝逆立ちをされるという先生の頑健さには驚かされたものである。』と紹介しており、欧州の著名評論家に一目おかれる青山の実力を再認識した。一方、93歳にして毎朝逆立ちをする年齢を感じさせない体力には驚き以外の言葉が思い浮かばない。

<参考資料>
青山義雄展図録(1988年)  バロンサツマと呼ばれた男(村上紀史郎著)
資生堂ギャラリー75年史   日動画廊50年史   名古屋画廊の70年
近代洋画にみる夢展図録   春陽会70年史     国画会展覧会略史
月刊美術1988 NO.148、  1993 NO.216    新美術24号 
みづゑ328号、353号、396号、399号、412号
東京文化財研究所情報  画家佐分眞 わが父の遺影(佐分純一著)
青山義雄展 中村彝賞受賞記念図録